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私もひとこと(2002年1月号掲載)
ノーベル賞受賞者の子ども時代」
中野 光 日生連委員長
 この数ヶ月、アメリカにおける同時多発テロからはじまり、米軍のアフガンへの容赦ない軍事報復とそれに協力する日本の自衛艦出動と歴史の歯車が人類史の悲劇にむかって動いていくように思われる日々が続いた。情報化社会は操作された情報を一方的に人々に提供し、しばしば真実をかくし、事実をゆがめる。また、その時々に考えなければならない重要な課題への関心を他へそらしたり、先送りさせたりする。
 そのような不安を感じていた10月に、名古屋大学教授の野依良治さんがノーベル化学賞を受賞されたことは日本人にとっても朗報だった。1年前の白川英樹さん(筑波大名誉教授)の受賞につづくもので、喜ばしいことだった。調子に乗りすぎたのか、政府部内から「むこう半世紀のあいだに、30人のノーベル賞受賞者を養成したい」との愚かな発言があったことが報道された。野依さんが、それに対して「不見識だ」と一喝され「ノーベル賞はとろうと思ってとれるものではない。地道な研究の結果としてもたらされるものだ」と語られたことは当然のことだった。
 私はしばらく前に白川英樹さんの著書『私の歩んだ道──ノーベル化学賞の発想』(2001年、朝日新聞社)を読んでいた。野依さんが「中日新聞」(2001年10月19日)に寄稿された「わが国の若い世代へ」に接したとき、その内容がともに「生活教育」論であることがわかり、共鳴し、感銘を受けた。
 お二人は期せずして、人間の成長には「野山の遊びが根源」である、といわれる。白川さんは、小学校三年から高校卒業までの10年間を岐阜県の飛騨高山で育ち「モウセンゴケをさがして湿地をはいずりまわったり、捕虫網を振りかざして雑木林を走り回ったりするのが日課であった」そうだ。
 「台風で根こそぎ倒れた大きな樹の根元から無数のセミの幼虫がはい出してくる様子を飽(あ)かずに眺めていたこと、庭の樹にかけた小鳥の巣のことで兄と姉がひなを捕ろうかどうかといい合っているのを聞いて、早くこの手のひらにひなを載せてみたいと思ったことなど、おぼろげではあるが記憶に残っている」という。
 また、白川家では5人の子どもたちが母の家事を助けるために仕事を分担していた、という。白川さんは「ふろの火たき」のことを「ファラディーの『ロウソクの科学』に代わる化学の実験だった」といわれておられる。
「新聞紙に食塩水を染み込ませてくべると黄色い炎がでて、教科書かなにかで読んだ〈炎色反応〉が体験できた。父が開業医をしていたので空(から)になった注射液のアンプルが手近にあった。この中にマッチの軸を詰め込んで火の中に置くと、はじめは水蒸気が白い煙となって噴き出すが、まもなくオレンジ色の炎が勢いよく噴き出してくる。これも飽かずに眺めて退屈をすることはなかった。(中略)ノーベル賞を頂く研究のきっかけとなった失敗実験も、よく観察していなかったならば、単なる失敗として葬りさられていただろう」
 野依さんも「野山で遊んだこの体験が僕にとっての生き方の根源になっている」と言い、若い世代へ「現場」に身をおけと説かれ、次のようなメッセージをおくっておられる。
「今の君たちは、幼いときから『小さな社会』をつくることに慣れていない。社会は、いろんな人の集団だ。(中略)競争原理も必要だが、競争至上主義はよくない。クラスで順番をつけることが、人生80年生きるために意味があるのだろうか。リーダーも必要だが、健全な社会では喜んでそれを支える人間も同じように必要なのだ」
 「子どもから」「教育現場から」の教育改革をめざしている私たちへの力づよいはげましでもあった。

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