/2002年月号掲載
丸 木 政 臣(日生連顧問/和光学園園長)

 私の生い立ち

 戦前は師範学校という小学校教員を養成する学校があり、私はそこに学んだ。いまの学芸大学、教育学部などの前身である。もとは県立で後に官立専門学校になった。若い人には馴染みがないと思うので、少し付け加えておくと、村では「富農」の家の優等生は幼年学校、士官学校をめざし、「貧農」の倅で出来のいい子は師範学校に入るといわれた。士官学校は軍隊の幹部を養成したし、師範学校は子どもを軍国主義に育て上げる教員を養成したわけだから、戦争が終わったときに「戦犯は士官学校と師範学校」といわれるのも当然なことだったかもしれない。

 はじめにわたしの生い立ちについてふれておきたい。私は熊本県の阿蘇山地に生まれた。阿蘇のカルデラに抱かれた火口原の僻村である。外輪山に降った雨は、火口原に噴出するのだからどこも「水大尽(みずだいじん)」で清流が溢れている。恵まれているのはそれだけで「阿蘇の百姓は一生かかって玄米一斗(くろごめいっと)」といわれるほど貧しかった。火山灰地で、湿田であるために畑作も稲作で出来が悪かったのである。私の家は薪炭をあきない、わずかばかりの畑を耕すという半農半商の家であった。俗にいう五反百姓の小作農からすると、いくらかましなほうだったが、私を長男に五人の男の子を抱えて生活は楽ではなかった。私はいまでも塩辛い味を好むが、これはたぶんに山間地で育ったせいだと思っている。いまのように冷凍物がなかった頃は、鮮魚などは口にすることはなく、イワシやサバの塩ものをよく食べた。それでもこんな安物でも食膳につくことは月になんどもなかったように思う。

 父も母も無類の働き者で年がら年じゅう働きどおしであった。朝は暗いうちからごそごそやり、夜は深夜まで夜なべをするので、くつろいでいる親の姿など見たことはない。思い出すのは馬を引いているか、鍬を握っているかする姿ばかりである。そういえば子どもたちを怒(ど)なりつけるときも、正面からということはなく働く手を休めもしないで「お前聞いているのか」と横顔で言ったものである。こんな具合だから、私たち兄弟ももの心つく頃には、労働力の一員としてこきつかわれた。掃除、洗濯、台所仕事などから、畑仕事、牛馬の世話、鶏の管理、商売の手伝いなどいまからすると子どもには無理と思われるようなことまでやらされた。一家総出で働いても貧しかったのだから、親にしてみれば子どもの教育のことなどかえりみる余裕など全くなかった。

 小学3年生のときのこと。朝の仕事を終えて「学校に行かんとおそうなる、朝飯はいいから学校に行くよ」と母親に、それも小声で言ったのを井戸端で聞きつけた父親が「お前学校なんぞ行って、朝から遊ぶんか」と大声を上げたものである。父も母も子どもの学校について関心を示さなかったし、そんな余裕も持っていなかった。

 そんな具合だから家には新聞もなくラジオもなく、まさに非文化的環境であった。夜9時になると電灯代が惜しいといって、電灯を消してまわるので予習・復讐はおろか宿題なんかもできはしなかった。にもかかわらず子どもたちは勉強はもちろん、いろんな活動で抜群の成績を上げ兄弟3人が級長であった。「スミ屋の息子たちのごと出来たらな」というのは村の親たちの共通の声だったという。

 5、6年生の担任であった武田先生は、家庭訪問にきて、なんども「この子は学問が好きじゃけん、上級学校に上げてやんなっせ」と父親にはなしてくれた。しかし父は、先生の前で小さくなって膝をおりまげ、
「百姓の子に学問はいりまっせん。百姓をやっとれば食うのに困ることはありませんからのう。上級学校に出したら金のかかって一家干(ひ)ぼしになりますがな。うちには5人もおりますで、子どもがようできるといわれたら親は災難ですたい……」
 と、とりつくシマもないように言った。

 親の思惑とはウラハラに、私は学校の好きな、俗にいうところのデキる子だった。親にとってはそれこそ災難だったのである。学資の心配が要るし、農家の労働力としてもアテにできなくなるからである。

 小学校を出て中学受験をしたが、これは武田先生の援助と父の黙認によるものだった。ところがその年の3月半ば、父がリュウマチで倒れるというふってわいたような災難があって、私は合格した中学に入学辞退をすることになる。不本意な境遇であるが、当時の心境は真白で空白のままである。

 師範学校への道

 私の家から山の方に入ったところにテモテ教会という、田舎にはなじまない十字架を掲げた尖塔の教会があった。ここにフリス先生、ギリガン先生という牧師夫妻が住み、布教活動をやっていた。私は三年生の頃から友達に誘われて日曜ごとに礼拝に行った。牧師の説教も、教会の図書室も、讃美歌も、私にとっては異文化の世界への通路であった。牧師夫妻には子どもがなく、私たちをとてもかわいがってくれた。私が家が忙しくて教会に行けないと、フリス先生が私の家の裏口から「マサさん、どうしました、心配していました、こんどの日曜日きてね」と片ことまじりに語りかけ、袋ごとお菓子をくれた。みると先生は素足でぞうりばきで、足の中がアカギレで赤くなっていた。

 私が小学校の頃、親の期待を裏切って学ぶことを捨てなかったのは、たぶんにこの牧師さんとの関わりにおうところが大きいように思われる。牧師夫妻は機会あるごとに「人間は知識を手に入れることで新しい世界を知ることができるし、真実にもふれられるのです。人間に生まれた特権は学ぶことができることです」といいつづけた。そんな話を聞いていると、子どもというものは自分にもできそうな気がして夢をみてしまうものである。

 さしあたり上級学校といえば、高等学校(旧制)から大学へというのが本筋であろうが、戦前は超エリートの道で田舎の小学校などでは、学級に1人居るかいないかで、僅かなパーセントしかいなかった。その他は専門学校でこれも今の大学なみでエリートコースである。これらはみな学費が安いが、学費のいらない官費の学校といえば、師範学校と陸海軍の諸学校ということになるが、農家の子どもで勉強好きだったら師範学校がもっとも手近であった。私が師範学校に進んだのは、太平洋戦争開戦の翌年であるが、同じ年に弟が海軍兵学校に入ったところをみると、私の親が私を師範学校に入れた最大の理由は「村の衆からどうして上級学校にやらない」といわれるし、進学させたくないが進めるなら「学費のタダの学校でなくちゃ」ということであっただろう。考えてみると、日本の侵略戦争を推進したのは「陸海軍諸学校の出身の軍人」と「師範学校がひろめた軍国主義教育」にあるが、この二つとも日本の農山村という貧困の土壌に立脚していたわけである。

 ある日、父親が武田先生にこんな話をしたのを耳にはさんだ。

「難しい学問は要りまっせん。学問ばして蔵原のようなアカになったら、一家この土地に住めんようになりますけんなあ」

 蔵原とは、共産党の名士蔵原惟人さんのことである。蔵原さんは、父と同じ小学校の出身で父にとって「学問をすることはイコール共産党」で、もしそうなったら一家が村を追われるということだ。金はかからない「志操堅固」で「師範が安全」ということだったのだろう。

『生活教育』ホーム ライブラリーのトップ 次の回へ