/2002年月号掲載
丸 木 政 臣(日生連顧問/和光学園園長)

 不惜身命(ふしゃくしんみょう)

 1940(昭和15)年から日本の社会の空気は一変したように思う。「大政翼賛会」という組織ができ、官僚も地主も学校の先生方も、婦人会も「新体制」の「バスに乗りおくれまい」と先を争って組織に入って行った。先生方も、役場の吏員も、みな黒っぽい「翼賛服」を身につけた。11月10日には、宮崎県高千穂に「八紘一宇」の塔が建てられ、紀元2600年の大式典が行われ、われわれ子どもも旗行列に参加した。このあと「祝い終わった、さあはたらこう」を合言葉に「ぜいたくは敵だ」のポスターが貼りめぐらされ、違反するものは警察に引っぱられた。米の配給制がはじまり、食堂で米食は売られなくなった。まるで水風呂に漬けられたように大人も子どもも、世の中の急な変化に身のひきしまる思いだった。

 子どもの目にも日中戦争の長期化、ゆきづまりは暗く映っていた。村からも毎日のように出征兵士が歓呼の声に送られた。日本政府は、戦局のゆきづまりを「南進政策」で打開しようと策したが、これは東南アジアに利権を持つアメリカ・イギリスとの対立はさけられないので「日米開戦」は時間の問題となった。「非常時」が合言葉で、国防服にモンペ姿が普通の格好になったので、「異装」をしていると「非常時だ わきまえろ」とまわりからやっつけられたものである。小学校が国民学校になり、師範学校が官立になって士官学校に並ぶ軍国主義の拠点となった。

 私はこんな「非常時」に師範学校に入学した。詰襟の黒学生服を夢みていたのに、私たちのときからカーキー色の戦闘帽、制服、編上靴にゲートル巻き、これで襟に階級章がついていたら軍隊そのままであった。入学式では小柄な銅直勇という校長先生がこんな話をされた。戦列で言葉の断片はいまも耳に残っている。

「諸君ら200名をここに迎えたことはとても喜ばしいことである。いまわが国が未曾有の難局にあることはいうまでもない。いまこそ国民一人一人が国体の本義を理解し、日本の正義の使命を自覚して、至誠尽忠の精神で皇国の道につくさなくてはならない。仏語に不惜身命(ふしゃくしんみょう)という語があるが、天皇と日本国家のために一身をかえりみない生き方がもとめられる。師範学校は少国民の指導者を育成するものであるが、“師範”でなく“死範”でなくてはならない。不惜身命の死こそ、もっともすぐれた死であり、それを体現することこそ求められるのだ……」

 口髭をたくわえた、温厚な先生であったが、「不惜身命」「死範学校」の語は畏怖(いふ)をともなって私の中に長く残った。

 師範学校の教科の授業は、そうじて内容がなく面白くなかった。それも「公民」や「教育」「体育」「教練」にばかり時間がさかれていて、「哲学」「文学」「歴史」「地理」「数学」「音楽」「英語」などのレベルは低く、旧制中学のほうがまだましであった。文学の時間に「万葉集」を教えてくれた森魏という若い大学出たての教師だけは、学問のかおりをつたえていたが、あとはほとんど「国体の本義」にそったお説教であった。青年らしい読書三昧、哲学的論争などというものはかげをひそめ、血気さかんな青年たちが大人しく老人のように日々をすごしていた。

 師範学校の欠陥は、一つは教科に学問が反映していないこと、二つめに全寮制で寮が軍隊の内務班そのままであったこと、三つめは上級生の権力がつよかったこと。上級生が教師になりかわって下級生にお説教をたれるから、学校の中に何百人もの教師が存在する感じであった。山村育ちの純粋、無垢な私も、だんだんと覇気をなくして内に閉じこもるようになっていった。

 振々寮

 師範学校の特質は全寮制にあった。三省寮、自習寮、有明寮、振々寮の4寮があり、それぞれの寮に伝統と独特の空気があった。私は振々寮に入れられたが、学年タテ割で4組所属ということになる。各寮に寮監の教師が2、3名いて、生徒代表の寮長、各室6、7名で室長がいるという編成で陸軍の内務班とよく似ている。玄関の正面に「学行一体身心一如」という額があり、学校で毎日誦えさせられる。「国体の本義に徹し、皇国の使命を自覚し、至誠尽忠以って、皇国の道の先達たらんとす」という「誓詞」の具体化である。学校では「皇国の道」、寮では「学行一体」を強調するのだからまるで禅僧の修業道場のようなものである。学校は「厳格」そのもので、青年たちの欲する自由などそのかけらもなく、学校と寮との往復は隊列を組んで行進するのが普通であった。息抜きの場であるべき寮は「硬直」したタテ社会で学校以上に不自由であった。しかも2合3勺の配給米ではひもじくていつもガツガツしていた。下級生たちは掃除や靴磨きのときなど「人のいやがる池田町振々寮のかごの鳥/2合3勺のドンブリじゃ夜はひもじゅうて寝られない/道行くみなさんわたし見て 憐れなやっこさんというだろう」という戯(ざ)れ歌を口ずさんだものである。

 私はみんなが「阿蘇の山ザル」と評するほど文化果つるところの育ちで、級友の誰よりも世間を知らない稚(おさ)ない人間であった。師範学校の何もかもが真新しく、上級生も同級生もみんながかしこく見えた。ところが1週間位してから学級担任の三浦強助先生に「この学級の級長は丸木君ということに職員会議で決まったので伝えておく」と学級で紹介されてびっくりしてしまった。まわりでパラパラと拍手もあったが、私はすっかり仰天してしまい研究室に三浦先生を尋ねて「級長はできません」と断わりにいった。そのとき先生は破顔哄笑しながら「入学試験で君が一番だったんだよ、自信を持ちなさい」といってお茶をいれてくださった。

 自立がおくれていて、人のいうことを素直に受入れるタイプなので、軍隊式の学校にも他の級友よりは違和感なく順応していった。ところが寮というのは学校のようにはいかなかった。自分の生活のしぶりをまるごとむき出しにしているので、否応なく寮長、室長、上級生の目につく。それは朝晩の挨拶、言葉づかい、食事の仕方、掃除のやりかたなど、一切合財である。私が夜中の「反省会」という寮の幹部による糾弾会に呼ばれたのは入寮からわずかの頃であった。室長の平田先輩が1冊の単行本を掲げて「丸木、この本はお前が読んどるんだろ」とどなりはじめた。松田寮長以下、強面(こわおもて)の幹部たちが、まわりをとりかこみ、平田先輩につづいてどなる。「この本はお前読んどるんだろ どうだ」というので「はい、それは徳富蘆花(ろか)の不如帰(ほととぎす)という小説です。入学するときに家から持ってきました」というと、「例の武男と浪子の恋愛小説じゃないか」この「非常時」にこんな本を読んどるというのは不謹慎だぞ 松田寮長の恫喝である。先輩たちは、読んでもいないくせに口々に「生意気」「軟弱だ」「級長のくせして」とどなりまくる。私は世間馴れしていないので、「この蘆花の小説のどこがいけないのか、日清戦争の頃の海軍軍人川島武男と、片岡浪子の愛情と、家のしがらみで仲を割かれる物語のどこが不謹慎なのか」と自分の考えをのべた。事実、私はこんな小説には小学校5、6年生の頃からなじんできていたので、上級生たちの怒りが理解できなかったのである。

 「その態度が生意気だ」と松田寮長の鉄拳を2、3発くらって眼から火花が散った。体制順応型の私であったが、「不如帰」も「いかん」といわれて、絶望に陥っていったように思う。

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