/2002年月号掲載
丸 木 政 臣(日生連顧問/和光学園園長)

 師範学校生徒の三つのタイプ

 全校集会などのとき、校長の次に席があるのは配属将校であった。その頃の配属将校は宇土虎夫という陸軍大佐であった。大佐という高級将校が学校に配属されるというのは稀なことであった。この大佐は沖縄戦で国頭(くにがみ)方面の部隊長をした人で、あとで知ったことだが沖縄戦では「退却」ばかりしていて戦闘らしい戦闘はしなかったそうだ。陸軍軍人らしくない、おしゃれで、靴はいつもピカピカ、服はドイツ製といわれた。軍事教練の時間はほとんど部下の「まんとく」(万年特務曹長)とよばれたヒゲの立派な豊島教官や安田軍曹に指揮を任せ、自分は校庭に立って展開される教練を黙って見ていた。そして二時間の授業の終わりに短い講評をする。

「師範学校の生徒は、概して真面目である。言葉をかえれば、面従腹背(めんじゅうふくはい)である。おとなしく聞いているようで、行動では別のことを平気でやる。裏表がはっきりしすぎる。人の話を聞いているようで、行動で裏切るというのは一番めめしいと思う。本日の授業でも、いつも教官の眼を気にしながら手抜きをしているが、これはよくない。……」

 宇土大佐という人は、軍人でありながら軍隊に不向きな、自分に正直な人であったかもしれない。

 当時から何十年も経っているが、宇土大佐は師範学校の生徒の気質、行動様式をもっとも適確にいいあてていたように思うことがある。一應真面目で、健康で、そこそこに学力もあるが、本質は面従腹背的だというのは生徒の状況をいいあらわしているように思う。ときは太平洋戦争の真唯中である。私をふくめて級友たちは、大きくわけて三つのタイプにわけられた。上級生の愛国主義者たちの呼びかけで「学生挺身隊」にはいっていく右翼の連中。これは体操、柔、剣道などの体育会系が多かったが、戦局が悪化するにしたがってだんだん数は増えてきた。次は若いうちに本を読んだり勉強もしておこうという青年らしい真面目派。これは中学四年で進学してきた者に多く、次第に右翼の集まりなどに出るようになる。三番目が、頭が良くて戦局の動きが見え、どうせ兵隊にひっぱられるのだとニヒルで逃避的になっている連中である。

 宇土大佐は、こんな生徒の気質を読みとって、そのいずれでもあり、またいずれでもない、青年らしさのない中途半端さについて面従腹背、状況によっては右にも左にもなるということをいったのであろう。私はくそ真面目で若者らしく生きようとしていたタイプだが「挺身隊」を真向から拒否するだけの信念もなかったし、ニヒルな連中の投げやりな生き方に一種の共感も持っていた。

 その頃、学校の授業でもっとも楽しかったのは、森魏という京都大学を出たての先生の文学の授業であった。背の高い青白い顔で歯切れよく喋った。「万葉集」というテーマで斉藤茂吉の「万葉集・秀歌選」をガリ版刷りで教材に使っておられた。週四時間であったが、その授業のある日は朝からその時間が待ち遠しくてならなかった。森先生は「秀歌を味わうということは、一にも二にも声を出して高らかに読むこと。注釈や詳釈は後のことです」と口ぐせのようにいわれ、よく透る声で暗誦している歌を唄うように読まれた。瞑想して教壇上で語られる姿は教室じゅうを深閑させる力強さであった。「巻一」から一時間に三首ほどを教えられるので、一年間に「巻七」の柿本人麿までしかいかなかったが、このとき私は「万葉集」への導きを得たし、その後短歌を作る喜びを培われたように思う。

 当時は「御民(みたみ)われ生ける験(しるし)あり天地(あめつち)の栄(さか)ゆる時に遇(あ)へらく念へば」という海犬養岡麿の歌がよくいたわれた時代である。森先生は、これは「天平時代、犬養岡麿が聖武天皇に、天皇の御民であるわれらは、この盛大な御世に出逢って、非常な生き甲斐を感じている」という歌で、「万葉後期の人麿調のもので、個人の心情よりも国歌を意識している点、自分に正直だとはいえませんね」という感想であった。右翼「挺身隊」組の本庄、堀内、上田、椎柿、新村などの面々は、口々に「この戦争は大東亜共栄圏を確立するための聖戦です。この時代に生まれたということは生き甲斐あることではありませんか」「国歌の命運をかけた戦争を国歌精神としてうたうということはまちがいですか」とくってかかった。

 森先生はそれらの質問には答えず「憶良の歌に──士(おのこ)やも空(むな)しかるべき万代(よろずよ)に語りつぐべき名は立てずして──というのがありますが、病にふしている憶良が、『名も遂げずにこのまま死ぬは残念だ。国のお役にも立てずに』というのがありますが、いま死の床にある憶良の真情を素直にうたったものとはいえませんね」といわれた。

 軍事教練

 文学が楽しみな授業なら、もっともいやな授業は軍事教練であった。週に二時間、学年を単位に授業があった。帽子をかぶり、ゲートルを巻いて、武器庫から三八式歩兵銃(明治三八年式)を担いで、陸軍歩兵の基本訓練を運動場でやる。年に数回は渡麓(とろく)練兵場に出かけて実戦訓練が行われる。「敬礼」「行進」「捧げ銃(つつ)」からはじまって、銃剣術、射撃、戦闘訓練まで細かく課程がきまっていた。もともと師範学校の出身者は、兵隊に入隊しても「短期現役」制で兵役を短く優遇されていた。それは学校の軍事教練で基本訓練を一通りやっているからである。

 私たちの頃は、いつ戦場に行っても役に立つようにということから、軍事教練が格別に重視されるようになっていた。さきにのべた宇土大佐と豊島まんとく、安田軍曹から「駆け足」だの「歩調とれ」だのやかましく鍛えられた。すべての生徒が二十才になったら兵隊にとられることになるし、そのとき軍事教練の成績が決め手になるので、生徒はいやで仕方がないが真面目に授業をうけていた。私は四組の級長であったので、否応なく小隊長として号令をかけ、指示をする役になる。声が大きかったので、学年の指揮をすることもあった。(その後、学徒兵として入隊することになったが、区隊長からお前の軍事教練の成績は九八点になっとるが、こんなのはじめてだといわれてびっくりした。これは小隊長として宇土大佐をはじめ、教官連のおぼえがよかったせいであろう。)

 昔のことを知っている連中にあうと「君は配属将校のおぼえが抜群だったから──」などといわれ、「軍国青年」と思われていたのではと考えさせられることがある。しかし初めにも書いたように「勉強をする真面目派」ではあったが、「学徒挺身隊や翼賛会」にはつねに距離をおいてきたつもりである。森魏先生という「学究」「厭戦的」なタイプの先生に惹かれながら、宇土大佐のようなパリパリの軍人にもかわいがられるところがあった。中途半端的でヌエ的な生き方をすることが、当時は求められていたのかもしれない。

 思い出すが、軍事教練の授業のはじまりは、各組から順番に「軍人勅諭」の暗誦をやることからである。正しくは「陸海軍人に賜はりたる勅諭」というが、「わが国の軍隊は、代々天皇の統率したまふところにぞある」からはじまり「軍人は忠節を尽すを本分とすべし」などの五か条が天皇の言葉として書かれ、暗誦するのに五、六分はかかった。日本軍隊の精神教育の基本だとされた。ほかのことはよく憶えない者も、「軍人勅諭」の暗誦だけは必死になったものである。たしか高木という生徒だったと思うが、暗記、暗誦がにがてで、軍事教練の時間になるとサボるようになり、それがもとで中途退学していった。

 宇土大佐は、そんな高木君にもどなりつけるようなことはしなかった。師範学校時代のことをふりかえると、なぜか体躯堂々、軍人らしからぬ気品のある宇土大佐のことが思い出される。

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