/2002年月号掲載
丸 木 政 臣(日生連顧問/和光学園園長)

 しんの学問への誘ない

 戦時下の師範学校では友人をもたなかった者が多かったのではなかろうか。上からまわりからの統制や管理がきびしくて、自由に話し合ったり遊んだりするという時間がなかった。交友関係というのは、あるていどの解放感がないとつくれないものである。私は幸せなことに一年の間に心を開いてつきあえる友人を得た。名前は中山重治。柔道二段で頑丈な体をしていた。彼は上級生に対しても自分を主張することは、たとえそれが損になることでも卑屈にまげることはなかった。体も大きかったが声も大きかった。友人関係というのは、何か互いに共通するものがなくては成立しないが、私も中山も「真面目派」で暇さえあれば図書館に通っていた。彼は朝鮮の木浦(もっぽ)の中学校からやってきたそうで、「独り」が好きだといって「鴎外」「露伴」「漱石」などに読みふけっていた。私はそんな中山に惹かれていった。中山が森魏先生の「万葉集」の講義のあとでこんな質問をしたことがある。

「万葉集は、天皇から農民、兵士にいたるまであらゆる階層の男女の歌を一つにまとめているところに特徴があるといわれたのはその通りでしょうが、奈良時代というのは階層分化が進んでいたわけでしょう。それなのに全国民が生活や感情がまるでおんなじであったように統一がとれていることが不思議ですが。──」

「あなたは着眼点がいいですね。いわれるように万葉集は、国民のすべての階層の歌を四千五百首集大成したもので、生活や思想の異なる人々の作品が集められていることが不思議に思われるのは当然です。だからこの後の時代にはこんな画期的なことはなかったのですね。ではどうして八世紀の初めには可能であったのかということになりますが、天皇中心の古代国家が生まれるときだったから、階層の上も下も統一した歌集ができたといえるでしょうね。このこたえでは十分でないのですが──」

 中山と森先生のやりとりはかなり高度なもので、私をはじめ多くは感心して聞いていた。

 三月の休みの前、中山が言った。

「おい、この休み中、二、三日奈良に行こうよ。森先生が京都に帰るので、行きたいなら連れていってやるというんだ。この本をこの前借りたんだ。『古寺巡礼』という和辻哲郎という先生の本だ。読んだあと本を返しにいったら、行きたいなら連れていってやるよというんだ。金は少し持っているから一緒に行こうよ」

 私は金がないので尻ごみしたが、中山は私の心を覗いたように「金は送ってきたのがあるから」と私を強引に誘った。

 こうして三月二十二日から二泊三日、森先生と三人の突然の奈良旅行が始まる。私も中山にならって図書館から『古寺巡礼』を借りてきて読みはじめた。私が歴史書らしいものと出逢ったのははじめてである。

 熊本駅は東上する陸軍の部隊で大混雑。寮の賄い小母さんの心づくしの焼きおにぎりを抱えて、やっと乗れた急行あさかぜで初めての旅行に出かけた。それでも戦時服やモンペ姿、軍服の人ばかりで、私たちだけがかけはなれた人間に思えた。

 森先生が「だんだん息がつまるようになってきましたね。私なんかも軍隊に入ることになるのは時間の問題ですね」といって笑っておられたのが印象的であった。奈良まで十時間かかったが、先生に『古寺巡礼』や『大和古寺風物詩』『万葉集』などのお話をうかがい退屈することはなかった。

 中山は、「先生の近くで、こんな特別講義を聞くなんてありがたいことだよ。先生、おにぎりでも食べながらゆっくりやって下さい」とごきげんであった。

 暗い影を見つつ

 夕方奈良に着いて「ぼくの知り合いのところへ行こう」といって、奈良公園の中を歩いて日吉館という古風な旅館に連れて行かれた。

 夕食は食堂で七、八人の客と一緒で賑やかだった。聴くともなしに聴いていたら、ラジオのニュースで「ついに軍はビルマのラングーンを占領し、ビスマルク島のラバウルをおとし、本日はルソン島でアメリカ軍と攻防をつづけています」といっていた。隣りの席は学生風の三人だったが、「勝った勝ったと勇ましいが、旧式の航空隊しかもたない植民地の陸海軍だから勝つのは当たり前だよな」「それも日本軍はマレーでもハワイでも不意討ちだから」「でもな、勝った勝ったと、軍艦マーチ付きで放送されると、多くの人間がだまされて、軍国主義のとりこになるんじゃないか」などと政府、軍部批判を小声ながらだがやっていた。日頃余り耳にしたことがない話なので、私たちは黙々と食べ沈黙していた。

 部屋に帰ってから中山が「はっきりものを言う連中でしたね」といった。森先生は「日本国民を軍国主義にし、みんなに銃を執るようにさせるには、正義の戦いだ、必ず勝つといって歓呼の声を上げてさわぐのが一番効果がありますからね」とぼそっといわれた。その頃というのは、安易な喧伝に幻惑されて日本全体が「欲シガリマセン勝ツマデハ」と熱狂しつつあったときである。その後、私の内面では日吉館の夕食のときの暗い話がときどき頭をもたげてくるのである。

 桜の開花も近いというのに奈良の日暮れというのは寒さが身に沁みた。私たちは森先生のあとについて、奈良公園から猿沢の池、興福寺のまわり、奈良の町を歩いた。町全体が暗く寂しい感じであった。帰ってから『古寺巡礼』を開き、明日はどこをまわるか相談したが、森先生お薦めの浄瑠璃寺(じょうるりでら)を最初にということになった。この寺は京都と奈良の県境近くの当野村(現加茂町)にあり、京都府である。奈良から六キロ北にあり、一時間に一本というバスに乗り一時間くらいかかった。奈良坂を越えると山城の名の通り山また山である。バスを降りてから小道を歩き、林の間をぬけ、畑の中の田舎道を汗をふきふき歩きに歩いた。『古寺巡礼』には「のどかな農村の光景である。浄瑠璃寺はこの村の一隅に、この村の寺らしく納まっていた。──何ともいえぬ平和ないい心持だった。──門をはいって最初に目についたのは、本堂と塔の間にある寂しい池の、水の色と葦の若芽の色であった──」という書きだしではじまっている。そして本堂と池と三重の塔のたたずまいを「古人の抱いた桃源の夢想──浄土の幻想と結びついている」と、ここに寺を建てた古代貴族たちの桃源境への憧れと書いている。寺域に入ると突然眼前にひろがる広い池、枯れた葦に包まれた池を真ん中に南に伽藍が長く、西に三重の塔が悠然としている。森先生の話を聞く。

「これは十一世紀に京都の貴族によって建てられたものです。当時はこの世は終わりという“末法思想”の時代で阿弥陀にすがって極楽浄土に生まれかわりたいという念いが強かったときです。あの三重の塔には薬師如来といって悩む人々を救う仏がいて、その仏に連れられてこの蓮の花の池を渡り本堂に九体ならんだ阿弥陀仏の浄土に導かれていくのです。……」

 当時戦火は世界に拡がり、身近かなところから出征兵士がでていった。中山にいわせると「いまの世の中も末世だよ。十一世紀の藤原時代も世の中がゆきづまった末世だ。だから貴族たちは極楽という桃源に生まれかわりたかった。われわれも明るい桃源がいい」ということになる。

 私たちは恍惚の思いにふけりながら、浄瑠璃寺からまた奈良に戻り、東大寺、三月堂、戒壇院を訪れ、翌日は薬師寺、秋篠寺を訪ねた。この奈良への旅は中山のお蔭であったが、私に歴史を学ぶことへの興味を植えつけた。

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