/2002年月号掲載
丸 木 政 臣(日生連顧問/和光学園園長)

 二十歳(はたち)までの人生

 「その頃」のことを振りかえって一番端的に思い出されるのは一つは「流行歌」、もう一つは読んでいた本である。一九四二年当時無味乾燥な寮生活がつづいていたが、「鉄の規律」の振々寮生活にも少しタガのゆるみができたし、上級生、下級生ともに阿吽(あうん)の呼吸とやらでなめらかに過ごすことも多くなった。とにかく配給米では飢えそうで、夜中に各部屋で輪番でうどん、そばなどを煮炊きすることも常習化した。必ず要領のいい生徒というのはいるもので、そんな生徒が差配して統制下で入手困難な食材を出町食堂のおネエさんと親しくなってうまく仕入れたり、上級生幹部の肩をうまく叩いたりしたものである。なかでも農家育ちの堀内君など、帰省するたびにリュック一杯米を担いでくるので、彼の帰省をあてにしたものである。学問はにがてだったが、底抜けに明るい彼は夜食の会のときは松田さんや平田先輩から「堀内やれよ!」といわれると「明日はお立ちか」という佐伯孝夫の歌「明日はお立ちか/お名残り惜しや/大和男児(やまとおのこ)の/晴れの旅/朝日を浴びて/出で立つ君よ/拝む心で/送りたや」という小唄勝太郎の小節をきかせた歌を素人ばなれした名調子でうたったものだ。よく「湯島の白梅」「新妻鏡」などもうたったが、戦局きびしい「その頃」にはこんな哀調や不安を抱えた歌もうたわれていたのだ。

 では何を読んでいたか。古い「反省録」(寮生活の日記、一九四二年)を開いてみるとどのページにも図書館から借りた本で埋めつくされている。阿部二郎『問答書』『三太郎日記』、内村鑑三『余はいかにしてキリスト教徒になりしか』、倉田百三『愛と認識との出発』などの人生論や哲学、森鴎外『阿部一族』『山椒太夫』『雁』、夏目漱石『三四郎』『それから』、徳富蘆花『思い出の記』『自然と人生』、芥川竜之介『羅生門』『河童』『朱儒の言葉』、幸田露伴『五重塔』『運命』、島崎藤村『破戒』『夜明け前』、徳田秋声『あらくれ』などの人間いかに生くべきか生き方を模索する文学や随筆を耽読している。「反省録」を読みかえすと、当時は徳富蘆花の『思い出の記』や木下杢太郎の『食後の歌』などもよく携行していたようで「言葉の最も純粋なる意味における美と自由の認識こそ生命の根源ならんか」などの走り書きがみえる。森先生のお伴で奈良に「古寺巡礼」のささやかな旅をしたことから歴史に眼をひらき、柳宗悦や柳田国男、和辻哲郎の名をみると中身を読まずにはいられなくなった。私がそのような人間の存在や日本の歴史に関わる本にひたったというのは、「その頃」のわたしがそこはかとない不安、焦燥の中にいたということになろう。よく「二十歳(はたち)までの人生」といわれたが、いま二十歳を目の前にして自分の生命へのいとおしみが強くなったようだ。

 軍艦マーチの伴奏つきで放送される緒戦のようすは大勝利の連続で、国民は忽ち軍国主義的熱狂のとりこにされそうであった。しかしこの熱狂も長くはつづかなかった。暗い影がしのびよりつつあったのだ。五月、六月と月が進むにつれて食料不足は生活を直撃したし、師範学校の教員の中から原野勇という数学教師が応召して軍門をくぐった。深夜の「夕食会」のおりに、四月半ばにアメリカ空母から発進した爆撃機が一六機、東京・名古屋・神戸などを空爆した。「みんな中国の基地に逃げこんだんじゃ、なさけないなぁ」松田先輩は慨嘆しきりだった。六月には、日本海軍の主力がミッドウェー島を強襲して、アメリカの科学的戦争技術の前に完敗してしまった。空母四隻、重巡四隻、航空機六百機を失い、この戦力の補充ができないで、敗勢がいちだんと強まった。

 私だけでなく当時の若者はみな若い生命の終焉(しゅうえん)の日が近いことを読んでいたのである。

 無残な死

 一九四二年を境に戦局は大きく転換した。

 学生・生徒「工場動員令」が出た。すでに「農村奉仕隊」として、戦場要員となった働き手の不足した農家に勤労奉仕として中学生・女学生が動員されていた。「強制徴用制」となり、高等専門学校、大学生は、軍需産業に二、三か月という長期にわたって労働力として狩り出され、教員は動員学生の監督者にされた。当時、熊本で新鋭の軍事産業といえば三菱航空機工場で、健軍という広大な土地に工場をたて「キ─67」や戦闘機「零戦」などの制作を担当し工員総数五万人といわれていた。ここに動員された学生は男子一万人、女子五千人といわれている。おそらく全国では三百万人の学生が徴用され、四三年になると学校の機能は失われたのではないだろうか。

 徴用学生のほかに徴用工や朝鮮・中国から連行された労働者もいて、何万人も収用するするような巨大な宿舎もつくられていた。航空機制作というのは徹底した分業体制で「部品」「機械」「銃器」「甲板」「電気」「車軸」「組立」「試験」など三十種ぐらいにわかれ、それぞれが巨大な工場である。私たち学生はそれぞれ少数ずつ各工場に分かれて、指導者の指示通り削ったり、叩いたり、切ったり、単純な作業をした。私は「キ─67」という新鋭爆撃機の組立工場に所属になった。学生や徴用工を加えて千人位だっただろうか、組立作業をするのはそれ専門の熟練工でわれわれは伝票に従って必要な部品、工具をそろえることである。学校の授業と同じで、伝票の機材を安易に集めてきて、熟練工に「お前ら字は読めんのか、こんないいかげんなことしていたら飛行機は故障を起こすぜ、ちゃんとやり直せ!」とどなられて眼が覚めるおもいをしたこともある。

 私は気心の知れた中山重治と同じ班で仕事をすることになったので安心感がもてた。昼間の仕事はきびしかったが、部屋でも、食堂でも、お風呂でも、どこでも中山が傍にいたので学校にいるときよりも快活にすごせた。食後、就寝前、中山が「なあ、お前は近頃、どんな本をよんでいるか、おれも暇をみてよむことにすると何か持ってないかね」と語りかけてくる。私は単純な中山も判ってくれるようにと「島崎藤村の『春』ならここにあるよ、田山花袋の『蒲団』、漱石の『こころ』もあるから読みなよ、乱読でいいんだよ、沢山読むうちに自分の中によりわける力がつくものだよ……」話半ばにして中山のいびきが聞こえはじめる。

 五月半ばのことである。
 食堂の掲示板に貼紙がされた。

 「キ─67」、試験飛行、搭乗希望学生募集、三名
 (体重六五キロ以下)、希望者は本部総務局まで

 関係者外には判らないだろうが、「キ─67」は軽爆で十一名乗りである。乗務員、テスターのほかに体重六五キロまでの学生を三名乗せようというわけである。普通は砂袋を必要数だけ積んで、重量を調整するのだが、この飛行機は試作機のために砂袋の代わりに学生を使おうとしたのである。

 学生たちは騒然としていた。そのとき私の傍の中山が中央席に詰めよって大声を上げはじめた。

「試験飛行のテスト搭乗者募集とは何ですか、学生を砂袋の代わりにしようとするのですか、人の命を何と考えているのか責任者の返事をお聞きしたい」

 中山の発言が終わらないうちに軍の派遣員や工場監督官の責任者が「唯今のことは質問者に説明をする、皆は食事をするように」と指示をした。

 何百人もが会食をする広い食堂だが、食堂の中央部の中山の「お聞きしたいことがあります。工場としてのお考えをお聞きしたいのです」という大声に、潮が引くように静まりかえった。監督官の「みんな静かにしろ、その学生の学校と氏名は何というか……」激しい声がかえってきた。そして傍の管理員が、中山のもとに来て「いっしょに来い!」と腕をつかんで引き立てていった。

 夕食後中山は私たちの宿舎には帰ってこなかった。一晩中私たちは気をもんだが、引率の平田先生は「仕方がない無事を祈ろう」といって自室に引き上げられた。翌朝、「学級代表四人来るように」といわれて監督官室に行った私たちが対面したのは、顔面を紫色に膨らして横臥している中山の変わり果てた姿だった。

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