/2002年月号掲載
丸 木 政 臣(日生連顧問/和光学園園長)

 友を送ることば

 親友中山が反抗的態度をとったばかりに、軍の監督官と工場の管理者の手にかかって無残にも殺された。体躯堂々、筋骨たくましい男が、一晩の制裁でひとかたまりのむくろに化した。病室の中山の傍に呼ばれた私にむかって、医師らしい白衣の男は「急性破傷風にて手を施す暇もなかった」と言った。紫色に変色した、歯をくいしばった中山の顔をみれば、死因は暴行にあると一目瞭然であるにもかかわらず、かたわらの平田先生や私は一言もいうことはできなかった。中山はさぞかし無念であったろう、と涙をおさえて遺体を引きとるほかはなかった。平田先生と引率教師の三浦先生は、両方から私の腕をにぎって「丸木君つらいけど、わかってくれ」といわれた。そして平田先生から全員集会で「中山重治君は、工場で破傷風菌に侵され急に亡くなりました。謹んでお知らせするとともにご冥福を祈ります」と話があった。少し事情のわかる者もいたのか、叫び声とも悲鳴ともつかぬ声、すすりなく声が起こった。

 四三年四月十九日、中山の学校葬がいとなまれた。学校の講堂で動員中の生徒を除く全員が参加して盛大な葬儀が行われた。朝鮮から駆けつけた妹さんに抱かれて、遺骨は正面祭壇におかれ、中山の笑顔の写真が飾られた。弔辞は学校を代表して私が読むことになった。私が書いたものを先生方が読んで手直しをするということであったが、出来上ったものは私の気持ちとは全くかけはなれていた。

「……中山君、急にこんな形で別れのことばをのべるというのは痛恨のきわみです。君は柔道に優れ、明るく闊達としていて、つねに学級の先頭に立って心身修練に励んできました。早くに父を失ないお母さん子であった君は、教師になって一家を支えたいと願っていましたが、こんな形で忽然と消えていくなど想像だにしませんでした。あとで破傷風に侵されたと聞きましたが、頑健な君が一夜にして消えていくなど到底信じがたいことです。私たち後に残された者はただ茫然として明日のわが命のことを考えています。君は希望にみち、意欲まんまんであっただけに、ここで果てることは心残りのことも多かったと思います。いまは君と幽明境(ゆうめいさかい)を異にしましたが、私たち残された者は君のぶんまでせい一杯生き、国家危急存亡のとき身命を賭すことを誓ってお別れのことばにします……」

 私たちが言いたかったことは、軍事工場での不合理な指示に疑問を提しただけで、よってたかっての拷問を受け、無残にも殴り殺された級友に怒りと、無念の思いをのべ、こんな事実を葬りさるいまの体制を糾弾することだった。しかし「とき」のご時勢というのは、ただそれだけの自由も許されはしなかった。弔辞は先生方の手によって直され、わが思いの何分の一も述べられなくて終わった。ただそのことの無念さもあり、弔辞を読みおえて中山の遺影にむかって声をかぎりに泣いた。おなじ思いであったのか、私のうしろでは生徒たちが風のような泣き声を上げしばらくやまなかった。

 奇しくもその日は、日本の連合艦隊司令長官山本五十六が西南太平洋で戦死したことをラジオで告げた翌日だった。なぜか日本海軍の良識といわれた山本長官の戦死が、私の中では不吉な影を投げかけた。それと中山の学校葬とが重なりあって、私には暗いかげりとなりつづけた。学校葬のあと、誘われて森魏先生の部屋に伺ったら「君、きょうは辛かったね、でも言いたいことはようくわかったよ。宇土大佐がね、『いいたいことを抱えたいい弔辞だった』といっておられたよ」とぽつりといって、いよいよ世の中は「暗くなるばかりだね」と寂しそうであった。

 学生挺身隊

 五月の半ば。熊本は梅雨の半ばの頃。毎日のように小雨がしとしとと降りつづいていた。軍事工場に「明日は登校して生徒課に来るように」との連絡をうけた。仕事が休みになるのでトクしたつもりで登校したら、私を待っていた部長の小山先生が、「こんど学生挺身隊というのが文部省の手でつくられる。陸軍省、海軍省の後援で、全国の大学、高専から学生を選んで特命の仕事をさせるそうだ。学校ごとに人選をすることになり、本校からは君を推薦したら了解ということになった。二十一日正午東京上野の桜木国民学校集合になっているので、あとわずかしか時間がない。突然のことだがすぐ準備をはじめるように」と話をされた。初めて聞くことであり、どこに、何をしに、どんな日程で、といったかんじんなことは一切わからないままである。私が何か聞こうとしても、小山先生にも判らないらしく「生徒課の近藤さんが集合場所まで付き添ってくれるので、あとはそっちでたしかめてほしい」といって、指示文書を渡した。文書によると「旅費、金銭一切不要。下着少々、制服、必要な物は全部給付」とあり、何か不気味である。当時、東京までは一昼夜を要したがロクに食べ物ものどを通らなかった。桜木国民学校には数百名の学生が集まった。みんなが勝手なことを喋っていたが、陸軍の将校が「静かにせい!」と声を上げたら一瞬しずまった。文部省のおえら方らしいのが壇上に立って「国家危急存亡のおり、今回、学生挺身隊が組織された。日本中の学生・生徒の模範として精励するように、目的、業務など秘密事項であるので、追って説明をされる」とのべた。そして「東京帝大江木元彦教授が特命により隊長に就任する」とのべた。東北・北海道の学生は仙台に集まるので、仙台であらためて隊の組織を発表するとして、三時すぎの臨時列車で仙台に向かった。

 列車の中でどこからともなく指示をまわされ、列車の北上とともに秩序がととのってきた。九州方面の学生は「阿蘇隊」に編成され、九州大学の熊野御堂という図ぬけて大きな学生が「オレが阿蘇隊の隊長を命ぜられた。学生挺身隊に参加した以上は学生ではないのだから、学生気分を早く一掃して整然と行動するようにしてほしい」と車輛の真ン中に立って訓辞をした。おなじ学生といっても私たちはまだ「少年」で、隊長は髭(ヒゲ)もじゃもじゃのおじさんである。「阿蘇隊の指導する指揮班を紹介しておく。私語をやめて注目せい」隊長の紹介で「広島文理大久保剛、長崎高商山本勝夫、熊本医大山崎勇」と呼ばれ、紹介された者は席の前に立った。この指揮班がわれわれの小隊長になっていった。列車はほとんどとまることなく動きつづけるのだが、その列車の中で隊が編成されたり、勤務要領が示達され、被服が配給され、夕食が給付される。それでいて「どこに」「何をしに行く」などは一切語られない。そしてそのようなことに触れるのはタブーの感じである。おそらく誰もがそれをききたかったにちがいない。私の隣りの席は「指揮班」の山本勝夫である。固い椅子で右をむいたり左をむいたり眠れないで転々としていると、山本が眠れないとバテるからな足許の床に寝たがいいよ、オレなんかさんざやってきたから。そして小声で「北海道の涯までも三日間も乗るんだゼ」とつぶやいた。私は山本から非公式に行き先は「北海道」と聞かされた。「北海道ですか、遠いですね」「いやそこまではわかっているということ、まだあとがあるかも……」とぼそっとこたえた。

「この学生挺身隊というのは何ですかね」

「君、何にも聞かされていないのかね。そのうちにわかると思うけど、危険思想の持主だと思われている学生をあつめて訓練をやらかすんだよ。それを国の工事に使役させるのだから一挙両得だよ」

 山本はそんな話をしながら寝息をかきはじめた。

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