/2002年10月号掲載
丸 木 政 臣(日生連顧問/和光学園園長)

 北上しつづける学生隊

 私はわけもわからないまま学生挺身隊に入れられ、四三年五月二十一日以降、見ず知らずの人たちと隊伍を組んで行動をすることになる。いまならあり得ないことだし、ずっと後になってから「学生挺身隊の組織と行動」について調べたことがあるが、記録されたものは何にもなかった。戦局が逼迫(ひっぱく)し日本の学生たちになんらかの措置を講じなければならないという事情のもとで、軍と文部省がひそかに企んだとしか考えようがない。私のように学校の指図のまま参加した者もいたが、なかには「左がかった危険な連中を集めて、国の企画工事をやらせ、思想統制もしていくこと」とある程度知っていた者もいた。たとい知っていたとしても、自分の自由意思で参加、不参加が決められるという余地はなかった。軍隊に自由裁量の余地がなかったことと同様、この学生隊も集まっていたら「学生挺身隊」にされていたということで、あとは軍隊とおなじように「上命下服」の規律で統制されていた。

 上野を出た専用列車は翌日夕刻には仙台に着いた。土曜、日曜の学校がからっぽになるときが利用されて、第二高校校舎で宿泊、訓練が行なわれた。先着していた学生隊と合流して全陣容が大講堂で明らかにされた。全体を指揮しているのは「本部」とよばれる十数人だが、だんだんわかってきたことだが隊長の江木元彦教授のほかに、文部省の係官、陸軍省派遣の将校数人、国立・私立大学、高専から派遣された地質学・生物学・植物学・海洋学・生理学その他の医師と研究者数人が居た。参加学生数は「六百人」ということで、九州地区は「阿蘇隊」、関西地区「浪速隊」、東京地区は「九段隊」、東北・北海道は「東北隊」と呼ばれた。陸軍の将校たちの参加、若い研究者の参加は、この学生隊の行き先や仕事にナゾがあることを投げつけ、私はこの隊の前途にある種の不安を感ずることになった。

 「本部」から隊の全陣容が発表され、「目的」や「行動計画」について説明があった。

「質問します!」

 隅の方から手が上がった。ざわめきが起る中で「本部」から「何だ」と声があった。

「どうしてわれわれが全国各地からかき集められたか、これから何をさせられるのかわかりません……」

 すると「本部」の中心とおもわれる文部省の係官が、「諸君らが優秀な学生だから来てもらったというだけで、細部の説明は不要と思います。これからの目的や行動については、江木隊長からお話があります」と言った。

 つづいて江木隊長が壇上に立った。中年のいかにも温厚な人で訥々と語った。

「いまの質問にもあったように、目的地や業務がわからないということで、諸君らに疑問や不安があると思う。いまいえることは君らの赴くところは北海道の北の樺太(からふと)の国境線ということ、ソ連との国境までの鉄道工事が準備されているので、その仕事を担当することになる。いうまでもなくいま祖国日本は、容易ならざる危急存亡のときにある。若い人たちが命を賭して第一線で戦っているとき、諸君ら学生も国家的大事業の達成のために力を尽くしてほしい。環境が変わるし、その中での重労働であるので苦労も多いと思うが、どうか日本の学生の底力を見せてほしい……」

 この江木隊長の話で「北海道の北の樺太の国境線」と聞いて、会場にはおどろきの声が上がった。樺太について知っていることといえば、「明治の初めにロシア領になり」「その後、ロシアの流刑植民地になり」「一九〇五年から北緯五〇度以南の南樺太が日本領になり」いまは南樺太には日本人や朝鮮人が多く住んでいるということ位である。

 ツンドラビール

 専用列車というのはときには一時間余も停車することがあって、ゆっくりしている。五月二十三日には仙台を出たが、青森から青函連絡船で函館に着くまでに五日間かかり、札幌、岩見沢、旭川、稚内へと三日を要した。いろんな出来事が茫漠としているが五月三十日夜、そのときの宿泊地稚内が大火に見舞われ、学生隊も消防隊に協力して消火活動にがんばったことが今更のことのように思い出される。上野を出るときに配給された洋服も、列車の中に座っていることが多いので、尻がすりきれて例外なく穴があいてしまった。ただ座って時間を過ごすのでなく、隊ごとに「座学」として文学や哲学の講義、地誌や地形学などの講義を聞いたりした。一時間も列車がとまるときには「体操」や「軍事教練」も組まれた。「本部」に付属する将校や各学校、研究所の研究者たちは、独自の研究課題も持っていただろうが、こうした日常教育のために必要だったわけである。

 稚内(わっかない)から稚泊(ちはく)連絡船に乗ったが、宗谷(そうや)海峡は五時間の旅であったが、海馬の泳ぐオホーツクの海の雄大さは眼に焼きついている。当時は大泊(コルサコフ)から北上すると豊原(ユジノサハリンスク)という区画整然とした人工的な街並があり、ここが南樺太(サハリン)の中心になっていた。六月六日にこの街の豊原高女に集結したが、そこには先着の隊員が溢れていた。それは朝鮮半島から強制連行された青年労働者千人と、おびただしい武装警官の群れであった。「本部」から鉄道建設に一般労働者も数千人が参加するといわれていたので頷けたが、警官は別の団体を護送してきたものとわかった。全国の刑務所から集められた成績優秀な囚人労働者五百人余に付き添っているものであった。

樺太(サハリン)地図
 「本部」からの説明によると、北上すると敷香(シスカ=ポロナイスク)というところがあり、そこから国境線(北緯五〇度)までの百二十キロに鉄道を建設する仕事をするが、学生隊は一番北の古屯(コトン)、囚人部隊は手前の気屯(ケトン)、朝鮮人隊は亜屯(アトン)、敷香を拠点とすることになる。私たちは敷香からトラックに分乗して最北の地古屯に向かうが、幌内川に沿った中央道は、ゆけどもゆけども湿原と池塘(ちとう)、鬱蒼たる巨木の森で道にはヤナギランの薄紅、エゾカンゾーの黄色が群生している。傍の柳原先生(生物学)がこのへんはツンドラ(凍土)が約一米あって、「水は少し赤くてツンドラビールという、生水を飲むと下痢に苦しむぞ」と説明してくれる。とにかく人跡稀れな湿原がつづく。

 私たちの居住地は古屯(コトン)というオロチョン族の集落(オタス)の中で、すでにまわりは伐木され大きなバラック建の二階屋が十棟も建てられていた。工事をやっているのは日本の土建業者と下働きのオロチョン、ギリヤーク、朝鮮人労働者である。国境線は古屯の集落から約一キロで、ソ連兵の姿が肉眼で見えるという。まず困ったのは、朝は四時に夜が明け、夜は九時まで明るく、働ける時間が長くて体がバテるということ。つぎは飲む水は、たといお湯でもツンドラビールは下痢をひきおこすということ。つぎは蚊がやたらと多く、容赦なく直迫してきてぷすっと突きささるということ。工事は、巾六十米に巨木を伐り、深さ二米にツンドラを掘り、そこに五米の盛土をしていくという単純な工事である。学生というのは、生意気なことはいろいろ言っても、労働で鍛えてないから長時間労働と、ツンドラビールにはつぎつぎとまいってしまいそれが予想外の支障になっていった。

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