/2002年11月号掲載
丸 木 政 臣(日生連顧問/和光学園園長)

 北辺の鉄道工事

 行き先不明の旅は長く感じられる。北海道から樺太、それも大泊、豊原から敷香(しすか)へ、そこから巨大な針葉樹の巨木と荒原の中をトラックでまる一日、ソ連との国境のオタス(集落)古屯(ことん)についたのは六月八日のことだった。上野駅を発ってから二週間以上の日時を要した。

 トラックで過ぎてきた亜屯(あとん)、気屯(けとん)のオタスでも長岡鉄道連隊の兵士、土建学の学者、動員された労働者が群れをなしていて、宿舎の建設や森林伐採などの工事で熱気が溢れていた。私達の拠点古屯はオロチョン族、ギリヤーク族のオタス(集落)で、全体が幌内川支流の湿原なのだが、この付近だけは小高い丘で森林が伐り開かれていた。早速に宿舎を割り当てられたが、夜は九時まで明るいので働く時間は十分である。われわれの到着を待っていたかのような蚊の襲来にはまいった。翌朝はみんなが刺されたところをボリボリかいていた。朝は四時に夜が明けるので、六時朝食、七時作業開始である。学生というのは日頃鍛えていないので、数日たったら起きられなくて「作業休」の者がではじめた。その上にツンドラビールという水を飲んで下痢がとまらない者もでてきた。蚊よけの防除網のついた帽子を被り、手袋をはめての工事で鬱陶しいかぎりであった。

 工事を直接指導するのは鉄道連隊の兵士たちで、二抱えもある針葉樹を伐り、巾六〇米にきり拓いて、まず二米ちかいツンドラを掘って運び出し、そこに土を盛り「じゃり」を積んで高さ一米位の線路敷きを固めるのである。書けばそれだけのことだが、実際に工事に携わるとなかなかの重労働である。しかも湿原と地塘(ちとう)が点在し、鉄道連隊の測量にもとづいて工事を進めることはなかなかの難事業であった。同じ班の長崎高商の山本や九州大学の白水らとは言葉を交わすことも多かったが、山本は「ほかよりも工事が進まないといって本部の連中はあせっている」といい、白水は「だって地図でみたってわれわれのところは沼ばかりじゃないか、こんな工事は学生なんてシロウトには無理だよ」とホンネを言った。渋滞する工事を先に進めるために、「本部」はオロチョン、ギリヤーク、白系露人を集めてきて学生の手に余る難工事にあてた。ときおり毛皮や骨を加工した小物を売りにあらわれる原住民は、例外なく貧しいので労賃が入ってくることにはとびついた。四・五十人の現地人が学生の各隊に手伝いに入った。顔の色やコトバも異和感がなかった。昼食など宿舎に引きあげて食べるのだが、高梁飯(こうりゃんめし)でうまくもなんにもなかったが現住民たちはおいしそうに食べていた。

 工事は日に五十米も進むこともあったが、地塘、湿原にかかると二十米進むのがやっとという位であった。江木教授をはじめ「本部」の役員たちも、防除網をかぶり、シャベルを執ったり、枕木を担いだりしていた。そんな中で七月に入ると重態が伝えられていた「浪速隊」と「東北隊」の二人が病没し、「阿蘇隊」の一人が伐木に倒されて事故死した。私たちが樺太を引き揚げるまでに死没した者が六名あった。これをしても「北辺の鉄道工事」というのは学生にとっては荷が重すぎたといえそうだ。

 ある日の夕方、憲兵数人が息せききってかけこんできた。気屯(けとん)の囚人部隊から六人の脱走者があり、古屯(ことん)から国境に向かったらしいということで、私たちの隊を手伝っているギリヤークのアニワという長老を伴って国境線にむかった。「五キロ行ったら国境だからね、そこを通りこしたらもうどうしようもないね」山本は「囚人は捕まらないだろう」といっていた。

 ヤナギラン散る

 ヤナギランの花は薄紅、エゾカンゾーは黄色、ともに可憐ではなやかな花である。樺太の六月は春、七・八月は夏、九月は秋、そしてすぐ雪と氷の冬となる。よく「ヤナギランが咲いたら春、散りはじめたら秋、そして冬」といわれるが、私たちが樺太にいたのはこの四か月間であった。

 ある日、下痢の特効薬があるということでアニワに伴われて古屯の一番奥のオタスに行ったことがある。そのときアニワが森林地帯の北を指さしながら「あれが日・ソ国境線、ほれソ連兵が見えるでしょう」といった。私の眼ではたしかめられなかったが、「五十度線」は眺望のいい高原状であった。国境を見ながらアニワはこう語った。

「一九三八年一月、そう昭和十三年のことね、その頃、有名だった俳優の岡田嘉子が愛人の杉本良吉と手をとりあってソ連に逃げこみました。二人が逃げたのはこの道です。杉本は岡田の手を引き、岡田はハイヒールを片手に持って、この百米ほどを走り抜けたいいます。……杉本はスパイ容疑で死刑になり、岡田はソ連の放送局につとめたりしたといいます……」

 私はアニワの傍から広凌(荒涼?)たる北樺太を遠望し、岡田嘉子という激しく生きた佳人のことを思ったものだ。

 ヤナギランがさかりを過ぎ、空を舞うトンボの数が増えた。九月に入ると朝晩は想像以上に冷えこむようになった。その頃は一日二交替制の労働になり、朝鮮人労働者が大量に古屯に動員され森林の伐木、トラック運搬業務などをしたので、作業の能率がよくなりやがて隣りの気屯(けとん)の工事現場とつながった。敷設された鉄道にはトロッコが走り、工事事務所も宿舎も気屯の近くの高原に移設された。

 私は山本や白水とは、「病気をしないで体だけは大事にしなくちゃ」と語り合っていた。囚人労働者や朝鮮人労働者の眼には、学生というのは青白くて小理屈ばかりこねまわして工事などには役に立たないと映っているらしく、すぐ「小生意気な役立たず」というあざけりがでてきた。「北辺鉄道工事」というのは過酷な労働で、学生に無理なだけでなく誰にとっても困難な労働であった。しかし三か月間の休日のない労働に耐えて、お互いに腕もたくましくなり、顔つきも色黒く精悍になってきた。山本は私や白水を見ながら「とても学生には見えないよ、強そうなオッサンじゃ」といって笑っていた。

 九月十二日、「撤収」の命令が出た。

 ヤナギランの花が散りはじめていた。私たちは新しく敷設した鉄道を通る軽便鉄道で。途中の気屯や亜屯の工事現場を見ながら敷香(しすか)に向かった。亜屯で幌内川支流にかかる鉄橋を通ったが、ここでは大きな陥落事故があったそうで、朝鮮人労働者に多くの死亡者が出たという。車内放送が流れ、一同窓の外に向かって黙祷をした。鉄道は幌内川に沿って敷香へ南下した。敷香に午後三時頃着き、自由行動の時間があった。このとき山本、白水、私の三人は、街の郊外に出てスイカを買い、叩き割ってむさぼるように食べた。その果汁のうまかったこと、いつまでも忘れられない。

 樺太から北海道を経て東京への帰路も長かった。東京上野に集結、解散式がおこなわれたのは九月二十三日だから、敷香をたって十日がたっていた。この間に北海道の長万部(おしゃまんべ)の駅で、五月二十九日に全滅したアッツ島の二千柱の遺骨を迎えたときの悲痛な思いは忘れがたい。私はその重苦しさを抱えて熊本に帰るわけだが、十月二日には「学徒出陣令」(「学生・生徒の徴兵猶予の停止」)が出るので、私には「北辺鉄道工事」から帰還したという実感はない。識者は「学生挺身隊が学徒動員の試金石だった」という。「学生挺身隊」の無謀から解放された私たちは、学校に帰って息をつくいとまもなく十月には陸・海・空軍に徴集されることになる。

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