/2002年12月号掲載
丸 木 政 臣(日生連顧問/和光学園園長)

 学徒出陣

 四三年九月二十三日、私たち学生挺身隊は東京に帰還し上野の国民学校で解散式が行われた。講堂の壇上に六つの白木の箱が並んでいた。当時のことは漠然として思い出せないが、江木隊長が「こうして帰ってくることができてよかった」と涙ながらに挨拶をされたことは印象に残っている。「六人の尊い犠牲は払ったが、樺太北辺鉄道工事の成功で学生の底チカラを発揮することができたが、戦局が重大化している折柄、樺太でみせた学生の力を戦局の転換にむけて発揮するときが迫っていることを痛感する」ということばは、いつわりなく当時の状況のなかで国が学生に期待していたことを物語っていたようだ。

 その晩は樺太に行っている間に仲良しになった早大の蔵原に誘われて、彼の家でお別れ会をすることになった。山本と白水(しろうず)、それに熊埜御堂(くまのみどう)と私で四人が、渋谷から東横線で田園調布にむかった。思いなしか東京の街は薄暗く戦時統制色がにじんでいるようでさむざむとしていた。この一年のあいだに戦争の急迫は、社会全体を急に暗くしていたのだ。私たちは隊から配られた米を持っていたので、それを蔵原の母親に「お世話になります。どうぞ」といって差し出したら「これは何よりのものを」といって喜んでもらった。お役所づとめという父親は、私の遠縁にあたる人でとっておきの洋酒を何本も振る舞い母親が「今夜のためにとっておいた」という牛肉をたっぷり煮てくれて、久しぶりに私たちはご馳走を満喫した。座談となると通称「おっさん」の熊埜御堂の独壇場で、蔵原の親、弟妹も加わって笑いころげる宴会となった。

 翌日、私たちは翔びたつように熊本にむかった。私は五か月ぶりに下宿にたどりついたが、小母さんが真っ先に見せてくれたものは「九月三十日繰上げ卒業」の通知書であった。翌日は、五月二十日いらい五か月ぶりの学校である。級友たちは軍需工場動員の最中で、校舎に生徒の話声もなく静まりかえっていた。受付に顔を出したら「山下部長が待っておられる」ということであった。日頃顔を出したこともない学部長室に行ったら、山下学部長と小山生徒課長がそろっていて、ふだんは言葉を交わすこともないのに、おふたりそろってにこやかに「こんどの樺太はご苦労さんでした。文部省の係官が挺身隊の働きについて報せてくれたよ。君のこともとてもがんばってくれたとほめていたよ」「引きつづいて軍隊だからご苦労だが、体に気をつけてやってほしいね」とこもごもお話があった。

 小山学部長の話というのは「三十日の卒業式で、樺太学生挺身隊の体験もまじえて、卒業して戦場に赴く決意を話してほしい」ということだった。あわただしい繰上げ卒業式は十月二日であった。小柄な銅直勇校長の式辞は感動的であった。「学校教師になるべき卒業式が、若者を軍門に送るためのものになったことに胸をいためています。諸君はこの難局のもとで、教師の道よりも軍人への道を歩まなくてはなりません。一にも二にも体を大事にして、生命こそ価値の根源であることを忘れずに与えられた場でがんばりぬいてほしい」といわれた。心なしか先生の声はふるえていた。私は卒業生を代表して「樺太派遣の学生挺身隊からつい一週間前に帰ってきました。息つく暇もなくこんどは学徒出陣ですが、校長先生のお話のように体を大事にして、国のために尽くすことができるようにしたいと思います」という主旨のことを述べた。

 この十月二日、政府は「学生、生徒の徴兵猶予の停止」を打ち出した。「学徒出陣」という名で呼ばれたが、徴兵年令の学生、生徒は、陸軍幹部候補生、特別操縦見習士官、海軍予備学生を志願させられ、全国で十五万人が十月中に軍門をくぐることになった。

 軍隊 速成教育

 連合艦隊司令長官山本五十六が撃墜されて戦死したことは、国全体のふんいきをいっきょに暗くしたように思われる。初めのうちは「勝った、勝った」で威勢がよかったが、ガダルカナル島撤退、山本司令長官の戦死、キスカ島、アッツ島の玉砕と訃報がつづき、太平洋戦争は日本が敗勢に傾いているということがはっきりと自覚された。すでに「軍需生産」に勤労動員と称して三百万人の学生・生徒を工場に動員したが、こんどは第一線の下級指揮官を補うために「学徒出陣」を懸声も麗々しく打出した。学生・生徒は、学校で軍事教練を受けてきているし、基礎的学力はあるわけだから八か月間の短期教育で激甚をきわめる戦場に投入できる。四四年十月の台湾沖航空戦やレイテ沖海戦には、「学徒出陣」の海軍予備学生が出撃した。飛行時間の少ない飛行科生徒は、はじめから機体もろとも体当たりする「神風」特攻隊をめざした。「学徒出陣」の戦死者は六万人といわれるが、これは三分の一以上の戦死ということになる。

 私は空軍はにがて、海軍は泳げないということで、陸軍を志望したので、十月十日に熊本陸軍予備士官学校に入校した。歩兵、砲兵、騎兵、工兵、迫撃砲などの兵科に分かれているが、私は速射砲(対戦車砲)隊に入ることになった。砲というのは普通は自動車か、馬で搬送するのだが、速射砲というのは砲身が七〇キロで、車輪六七キロ、分解搬送で人力ぎりぎりのところで担がせられる。従って体重七〇キロ以上、身長一七〇センチ以上というのが普通である。しかも速射砲の射撃には数学を使うので、三角函数は必須である。私は体格も標準より劣るし、数学はにがてである。どうして速射砲隊に入れられたかということになるが、「農村育ちで馬の世話が上手」ということが徴兵官の耳にとまったのであろう。

 予備士官学校というところは、士官学校が上級将校(現役軍人)を養成するのに対して、兵科ごとに専門的力倆をつけさせて、短期間のうちに戦場に役立つ下級将校を養成するところである。一年そこそこで一人前の将校を育てようとするのだから、その訓練は言語に絶した。ことに戦局が窮迫して「学徒動員」で学生を予備士官学校に入校させたのだから、その訓練のひどさは前後に例がないといわれる。入校の翌日から一日八時間の演習がはじまった。速射砲と馬に繁駕すること、砲を引きながら行進すること、速射砲の発射の基本動作など、短時間で叩きこまれた。「お前らよくそんな粗末な頭で学校に通用したな」とどなる。それも区隊付の曹長、軍曹という下士官である。一週間学内の演習がつづいたらいよいよ九キロはなれた練兵場ゆきである。主として八人が一班で発射の基本訓練で、やがて戦車を配置した攻撃、退避の訓練も実施される。演習場から帰営すると砲や馬の手入れ、内務班の掃除や靴の手入れなどをして「飯上(めしあ)げ」の時間になる。全校が食堂で会食である。「貴様らの赴くところは、フィリピンか沖縄だ。飢えに勝つことが一番だ、胃の腑を小さくする訓練だ」と教官が口々に言うように、入校の翌日から全員が空腹が日常になった。飯の量にしたら一日でおにぎり三個分はなかっただろうし、副食も粗末なかぎりであった。私は入校のときに五八キロであった体重が、三か月の間に五〇キロを割ってしまった。人間は飢えに弱い。教養人のはずの連中が残飯をあさったり、馬糧の豆粕をむさぼり食ったりした。暇があって喋ることといえば、カレーライスやトロロめしをたらふく食った話などばかりであった。

 夕食が終わると三時間の座学。「歩兵操典」や「測量学」などの講義。居眠りでもしようものなら「たるんどるう……」と木銃でつきとばされたり、上靴で顔が歪むようになぐられた。教官や下士官は「軟弱な学生気分を一掃する」といって毎日候補生をしごいた。

 私も靴磨きが不十分だということで、夜の検査のあとで、隊付軍曹から皮の「上靴」(スリッパの靴底の厚いもの)で、顔面を殴られ左耳の鼓膜を破られてしまった。

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