10 /2003年月号掲載
丸 木 政 臣(日生連顧問/和光学園園長)

 二十歳の私

 満二十歳になった男は、一斉に徴兵検査を受け、否応なしに学徒兵という名前で軍門に入る。学生を戦線に出さねばならないほど戦局は窮迫していたのだが、「学徒出陣」というりりしいことばで飾りたて、若者の多くは使命感に酔って新しい世界に入っていった。

 前にもふれたが、私は熊本陸軍予備士官学校に入校した。第一線の指揮官を短期間で養成するところで、歩兵、砲兵、工兵など専門の兵科について特殊な訓練をするところである。ふつう将校になるには、入隊して初年兵教育を受け、六か月して甲種幹部候補生の試験を受けて予備士官学校に入るので、どんなに短くても一年半の年月を要する。

 私たちは特別甲種幹部候補生という最短期間で見習士官になる制度の第一期で、わずか一年たらずで見習士官になり第一線の部隊に配属した。「学徒出陣」の第一期ということもあって、これまでにも例のないようなきびしい訓練がおこなわれた。二日目までは、下給された被服などの整理、一日の日程や内務班の諸規定の説明などで、「軍隊とはこんなところか」と思うほどであった。ところが三日目の朝早くから区隊付将校、下士官の「貴様ら、いつまでお客さん気分でいるんだ! 集合ラッパが聞こえんのか! 営庭に駆け足で集合だ!」とどなられ、行動のノロマな者は木銃の尻でなぐられた。シゴキとはこんなものかと思い知らされた。営庭に集合するのに遅いもの、私語を交わしていたものは、営庭を走らせられる。学生というのはダラシないので、それを払拭して早く軍人に仕立てるにはシゴキが一番効果的だと思われていた。シゴキの典型は、「口ごたえをした」「いいわけをした」などの理由で、「足を踏んばれ」「あごをひけ!」の怒声のあと、顔がゆがむほど鉄拳で殴ることである。学生というのは甘やかされて育っているので自己管理がヘタクソで、何をやっても何かヘマをやる。演習場で帯剣を紛失した、砲の車輪止めを忘れた、ひどいのになると弾薬箱や観測機具を置いてきたなどということもある。一度帰営したのに、また演習場に戻り、区隊全員の責任で演習場に四つん這いになって夜なかまで捜索することもある。粗忽者というのは決まっていて、重営倉に入ることになる。これも隊ぐるみのシゴキである。

 軍隊というところは行軍をするので、編上靴をこよなく大事にする。靴がぴったりしているのと、違和感があるのでは行軍の能力が全くちがってくる。だから一日の終了は靴磨きである。内務班ごとに入念な検査がおこなわれる。靴底には二五箇の鋲がついているが、その一つに泥がついていても班付下士官からイビられる。トンマな学生は、靴を両方をヒモで結んで首からぶら下げて「靴どの申し訳なかった」と隊内をまわらせられた。隣りの班に二階堂という華族の息子がいたが、要領もわるくいつもイビられていた。ただ人徳というのか、おおらかでそれでめげることもなく日を送っていた。

 夜の座学の中心は作戦要務令講義と、射撃における観測術の演習である。私たちの速射砲は、時として見えない敵を間接照準で射撃をする。その場合、観測班が前進していて観測結果目標の位置を知らせてくる。サイン、コサイン、三角法を用いて、砲の位置、観測班位置、敵の位置を計算し、それに風向、風力を算入して、砲の仰角を決めて発射することになる。私のような文科の人間にとっては、とても厄介な時間でニガテなことであった。ところが数学科出身の二階堂にとっては易しいことのようで教官よりも計算が速かった。ダメな二階堂がサエた人間に変わるときであった。

 しかばね衛兵

 主食は高梁飯(こうりゃんめし)であった。中隊全員が長机に向い合って座り、壇上の当直士官の号令一下その高梁飯、汁碗、茶碗を手にする。米や麦の中に高梁の赤い粒々がはいっている。「馬糧」とおんなじで、はじめの一日二日は「馬のくいもの」といって手もつけなかった。ひもじいので臭い高梁飯でも夢中でかきこむことになったが、消化に悪いから下痢が続出した。胃の腑を小さくする施策だから、誰もがひもじくてガツガツしていた。なかには炊事場の残飯をあさるもの、演習場で畑の薯をかじるもの、ふだんは想像できないようなことが起きた。炊事係は各区隊から要員が出るが、飯の時間になるとこの係がつぎわける飯の量が関心のマトで、みんなの眼がこの要員の手許にあつまった。茶碗に入っているのは、いつもごった煮ばかりで、形のはっきりしているのは黄色のタクアン漬けだけだった。

 一月の日曜日は珍しく面会日であった。午後は練兵休であったので、親きょうだいなどが目立たないように食べ物を持って面会にやってくる。大食堂のあちこちで、学生たちは久しぶりの家族との再会をたのしみ、懇談にふけった。遠い所から来ている者の家族が多く私のように近い所の者は比較的少なかった。大食堂を出た片隅に「酒保(しゅほ)」があった。「酒保」とは名のみで、その頃は酒倉は全くなく、休憩室と日用品の売店があるだけであった。私の班は甲府から来ている梨本が、家族からの差入れを賞味しようと、まわりに声をかけたので戸井、楠田、丸木、永原、島田、河野、山村と八人が「酒保」の窓際に座った。班は十二人だから用務の人間を除いてみんなが顔をそろえたのである。純米のおにぎり、笹だんご、葡萄など、久しぶりのご馳走にみんなご機嫌で大満足だった。頭痛を理由に演習を休みがちだった楠田も、このときはとても元気で「こんなご馳走を食べたら思い残すことはないな」などと冗談を言った。

 そして珍しく歌を唄った。

  いやじゃありませんか、軍隊は
  金のお椀に金の箸
  仏さまでもあるまいに
  一膳飯とは情けなや
   ほんとにほんとに ごくろうね

 われわれが寮などでよく唄った戯(ざ)れ唄である。よく知っている歌だがその場は楠田に同調する雰囲気ではなかった。楠田の態度は美味しいものを食べて、少し気分が高揚したようだ。私たちの近くで私たちを見ていた週番士官が、突然大声で怒鳴った。「歌をやめろ! その候補生名をなのれ!」。そのとき私たちはこの場所がシャバ(世間)ではなく、予備士官学校の中だということを自覚した。

「ハイッ、第一区隊楠田太一であります」

「ようし貴様直ちに週番士官室に来い!」

 われわれは楠田の周りに集まり、週番士官の清水中尉に向かって「みんなが浮かれてついシャバの空気を持ちこみました。みんなが同罪ですので、どうか楠田を許して下さい」と頭をさげたが、士官学校出身の中尉は日頃「学徒兵」は軟弱だと思いこんでいるので、激昂したまま週番士官室に引き揚げた。その晩はわれわれ一同気をもんだが、二時間ばかりで楠田は帰ってきた。そして「大したリンチではなかったよ」と薄笑いを浮かべながら毛布にくるまって寝た。

 翌日は小雪の降るなかで帯山演習場で戦車迎撃訓練。楠田は軍医の許可を得て練兵休をした。その日、帰営してみたら内務班の銃架に首を吊って楠田はこと切れていた。彼のベッドに「迷惑をかけて済まない。私は軍隊にはむかない」という走り書きがあった。軍隊では誰かが死ぬと死体を屍室(しかばねしつ)に運び、班の者が死体に付き添うしかばね衛兵をやる。雪が小やみなく降る寒い夜、楠田のなきがらを守るしかばね衛兵をやった。朝方になって永原が「クスダ!」と声をあげて泣いた。みたら島田も山村もみんなわーんわーんと楠田にとりすがって泣いていた。京都大学哲学科出身の楠田は、行軍ではいつもビッコをひいて歩いた。死んでようやく安息な時間がやってきたようだ。

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