11 /2003年月号掲載
丸 木 政 臣(日生連顧問/和光学園園長)

 きびしい訓練

 私たち特別甲種幹部候補生の「訓練」というのはまさに言語に絶していた。その背景には刻々と深刻化する時局があった。インパール作戦が始まったし、六月には米軍がサイパン島に上陸した。この二つは戦局の転換に関わることで生徒隊長が全校生徒に「非常時」を訴えて「一日も早く国のお役に立つように」と檄をとばしたのを覚えている。戦局が激しくなるのと呼応してきびしくなるのは食糧統制である。民間も食糧事情がきびしくなってきたのはわかっていたが、軍隊の食糧統制は訓練である。飯や主菜の量が減ってくるとみんな眼玉だけギョロギョロでささいな食い物のことで眼くじら立てる。それも誰一人として例外な人間はいない。もう一つは訓練に鉄拳制裁を軸にした制裁、しごき、リンチがおこなわれることだ。教官や下士官は「私物の整理がなっていない」「厩当番に遅れた」など理屈はなんでもいい、上靴や木銃でなぐることが教育と思っているらしく徹底的にしごいた。いつも「軟弱な学生気分を一掃してやる」というのが口ぐせである。一月のことであったが、わたしは粉雪の舞う営庭で区隊長と同期生を見まちがえて欠礼したということで区隊付将校の制裁を受けた。松岡という区隊長はそのまま行きすぎたのに区隊付将校は私の胸ぐらをつかみ「区隊長殿を見まちがうとはどういうことだ、許せんぞ!」と私の顔を鉄拳で殴りつづけ、防空壕に叩き落とされた。立ち上がろうにも鋭い石が後部に突きささり、起きあがることもできなかった。血だらけである。同期生たちによって人事不省のまま医務室に担ぎこまれたが、軍医の指示で厳寒の中バケツで水を何杯もかけられた。軍医は起立して事故報告をやれという。でないと治療はしないという。私はもうろうとした中で「雪の中を急いでいて松岡区隊長に欠礼をしました」とのべた。すると軍医は「それは上官侮辱だ」と言い「貴様ごときには麻酔はできぬ」といって、立たせたまま五針の縫合をした。後頭部のことで縫合するときには激痛があり、倒れかかるのを仲間が必死にささえた。翌日は練兵休(訓練の休み)を申請したが「上官侮辱」の理由で許可にならず、激痛に耐えて演習場を駈けまわった。

 こうした日常的な「訓練」の上に「歩兵砲」隊に独自の「馬を使いこなす」「大砲の操作ができる」「何キロもの行軍をこなす」ことなどが「実兵式」といわれる戦闘訓練になってくる。せめて胃の腑が満たされて満腹であればもっと充分の効果を上げられるであろうが、飢えているためにいつもイライラしていた。日本の軍隊というのは、三か月もこんな調子でシゴキ、イビラレたら内地で食うや食わずの目にあっているよりは、早く銃弾のとび交う戦場に赴きたいと思うようになる。

 私は予備士官学校のころ北白川宮参議の非常の場合の輸血係(血液型がたまたま一致していた)を命ぜられていたので、街中の陸軍病院まで公用外出の機会があった。眼にするところ「雑炊食堂」なるものができ、「建物疎開令」で繁華な土地の家が取壊されていた。しかも「学徒動員」で女学生のモンペ姿が大量に移動するのをみた。

 予備士官学校にいるかぎりは、新聞もラジオもないので、時局のうごきなどつかみようはないのだが、ちょっと「垣間見る娑婆」は激変しつづけていた。というよりも政府が呼号するのと裏ハラに戦争は日に日に日本に不利に傾いていたといえる。隣りのベッドの島田が、昼の演習場で聞いたといって「毎日新聞の記者がな、竹槍訓練でどうしてアメリカに立ち向かえるか」と書いたので、東条首相は激怒してな、新聞発行を抑え、この記者を南方戦線に召集したというよ」と小声で話してきかせた。ここまでどうしようもなくなっていた。

 陸軍予備士官学校卒業

 六月十四日、一か月間短縮して第一期特甲幹は卒業の日を迎えた。初めて見習士官の正装を着た九百名の卒業生が集まった。

 砂田学校長より迫力ある卒業のことばがのべられた。「昨年来、わが軍はガダルカナル島を撤退、アッツ島玉砕、いまサイパン島があぶない、これからは敵はインパール、フィリピン、沖縄に殺到するものと思われる。あとはこの日本本土への襲来を防ぐことになる。諸君ら特甲幹第一期の諸君たちのむかうところはインパール、フィリピン、沖縄など日本の命運を決する第一線ということになります。追いつめられた日本の活路を開くために、諸君には八か月余の訓練を実地に生かしてほしい。とにかく武運長久を祈っています」

 校長の訓辞は短い中にも、日本のおかれているきびしい状況が率直に語られ、卒業生たちの任務のきびしさを示唆していた。その後中隊毎に食堂に集まり、昼食をとり任地の発表があった。鹿児島、宮崎、沖縄などの部隊が多い中で、私は意外なことに「広島幼年学校訓育班付」であった。

 私は親戚の家に一泊しただけで汽車にゆられて広島にむかった。広島の町は想像以上に大きく、軍都らしく駅も陸海軍人で溢れていた。広島幼年学校の車が迎えに待っていた。郊外の整然とした広大な土地が幼年学校である。中学二年生までの将来将官をめざす子どもたちが青雲の志に燃えて学ぶところで、男に生まれたら一度は志望するところである。受付で「第三生徒隊」といわれて、隊長室に赴いたら大柄な大尉が「わたしが生徒隊長、生越大尉だよろしく、君は訓育班付だから当面内務班に付いていて指導をしてほしい」といわれた。裏の赤松の林では、蝉の声が波のようにひびきこの世のものとは思えぬほどのどかである。林にとりかこまれた自室に入ったら、これまでの予備士官学校のけたたましさと余りにもちがっていておどろいてしまった。

 幼年学校の生徒というのは、中学三、四年と五年生ぐらいで、この課程を終えて士官学校に進学するが、どの子も快活で、元気がよく、かわいい感じである。軍の学校にしては学科の授業が多いが、軍隊独特の要務令や操典類の講義があり、教練の基礎訓練や内務班でのしつけ教育もあった。私はもともと師範学校を出てきているので、生越大尉のように「貴様はよく合っていると思うぞ、誰よりも教官らしいぞ」といった評価もあったようだが、それだけに自分への自己嫌悪があった。それは「空気になじみやすい」ということである。卒業にあたり砂田校長がいわれた「日本の活路を開くためにがんばってほしい」ということがいつも耳の底にあった。多くの仲間が死地に赴いたのに、おれはこうして幼い子に囲まれて、蝉の声を聞いていていいのか、私は煩悶した。そして思いきって生越大尉に打ち明けた。私の話を聞いたあと「きっとお前のような実戦の指揮官をめざしているものがほしいというところはあるだろう、惜しいことだがお前の気持ちはわかるのでたずねてやろう」ということになった。

 この結果、私の赴任先になったのは宮崎県都城市の歩兵八一部隊であった。この中に八月に速射砲(対戦車砲)中隊が編成されたという。私にとっては願ったりかなったりである。広島をはなれて五日後に都城に移った。ここは幼年学校とはまるで環境のちがった、山の中の昔ながらの古びた兵舎である。中隊長は、陸軍士官学校五五期のピカピカの中尉であったが、「この中隊は沖縄に布陣して上陸してくる米軍を迎えうつ戦車砲隊だ。砲二四門、観測器十機はみな最新だ。下士官はみな関東軍からだ、よろしく頼むぞ!」と大きい手で握られた。私はここで中隊要員として、仲村正儀、松田正和、知念清和らと朝な夕な飯を食ったり、演習したり「戦友」としての固い交わりを結ぶことになる。私の人生で一番幸せだったときかもしれない。夏から秋にかけて対戦車迫撃の訓練で明け暮れた。

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