12 回(最終回) /2003年月号掲載
丸 木 政 臣(日生連顧問/和光学園園長)

 独立歩兵砲中隊

 私の新しい赴任先は都城七一部隊の独立歩兵砲中隊であった。この八月に対戦車砲と迫撃砲プロパーの精鋭部隊が新編成されたところで、対戦車砲だけでも37ミリ砲が四二門もそろっていた。私のように対戦車砲や迫撃砲専門の見習士官が各地から小隊長見習としてかき集められていた。おどろいたことに下士官は多くが満州の関東軍で訓練を受けてきた連中で、見習士官とは比べものにならない精兵中の精兵であった。見習士官は、観測、照準、射撃を型通りやろうとするのに「おそい、何をやっとるか!」と瞬時に照準を定めて第一発を発射した。

 中隊長は、陸軍士官学校五五期のピカピカの生越中尉であった。私たち中隊要員として同日赴任をした四人、仲村正儀、松田正和、知念清一、丸木は中隊長に固く握手をされた。一九四四年八月から十一月の頃といえば、内閣も東条内閣から小磯内閣にかわり、九州各地に中国沿岸からB29が空襲に飛来し、レイテ沖海戦では、大本営は「大勝利を宣伝しているが、はや空母、戦艦の大半を失ない、連合艦隊は壊滅に瀕している」という噂が流れていた。たしかに戦局は逼迫していただろうが、都城という田舎町は平穏そのもので戦局が敗勢に傾いているとは思えなかった。営内居住であったので、酒、タバコ、甘味など食べ物に不足するものはなかった。

 あるときわれわれ見習士官七人は、中隊長の「観測班の任務」について講義を聴いた。木陰ではあったが暑かった。その時中隊長は「われわれ独立中隊は、さきに編成された沖縄派遣軍・球兵団の二四師団二十二連隊に配属されることに決まった。ほかに第九師団、第六二師団であわせて十万人近い兵団だが、米軍も何十万人だろうな。上陸軍対われわれということになるのだから対戦車砲の実力がものいうときがきたのだ」といわれた。われわれ独立中隊は、海岸線に配置されて、上陸してくる戦車・自走砲を迎撃するのだ。対戦車砲は、最初の一発が戦勝の秘訣といわれたが、はじめに撃ち損じたら報復の乱射を受けることになる。「沖縄要員」といわれてから速射訓練がもっとも熱をおびたことはいうまでもない。

 鹿児島での別れ

 だんだん寒くなる頃、これから沖縄に赴くということで亜熱帯向けの防暑服、下着類など夏向きの新品が配られた。十二月二十日ちかく、部隊編成終えた歩兵砲中隊は馬や車輌も一緒に西鹿児島に移動した。このときも都城で一緒だった仲村、松田、知念の戦友は行をともにした。仲村は広島文理科大学で教師をめざしていたし、松田は長崎商科大学で語学に長じていたし、知念は宮崎高等農林で林学をやっていた。西鹿児島に着いてから灯火管制で真暗な町を軍の宿泊所「とぎ屋旅館」に向かった。町の中は軍隊で溢れていた。そんな中で私は連隊本部に出頭した。「新型速射砲(60ミリ砲)を受領するために習志野歩兵学校に出張を命ぜられたのである。私は翌日鹿児島を離れ、戦友たちは二十四日未明に沖縄に向けて出帆したはずである。私が再び鹿児島に新型砲を運搬して帰着したのは翌年一月二十九日であった。第八四師団の一員として沖縄に追尾することになっていたが、制空権、制海権がないので急遽沖縄派遣は打ち切ることになったのである。

 すでに「本土決戦」の噂がしきりであった。同時に長野県松代に大本営を移転することも進んでいるらしかった。「沖縄決戦」に日本の命運を賭けてというのは「言葉」だけで、それは「本土決戦の時間稼ぎ」と解されつつあった。私が「新型速射砲(60ミリ砲)」を受けとるために習志野に出向したときも、高級将校たちの中には「これを沖縄に持っていくのか」「むざむざとおしいことだ」といわんばかりであった。第九師団のタイワン転出にかわって、内地から第八四師団を派遣するといわれていたが、これも急遽取りやめになった。この師団の参謀長が皇族であり、皇族を沖縄で戦死させてはならぬ、という派遣反対論がおこったためといわれる。「制海権、制空権が無いところに新しい師団を送るのは無暴だ」というのは表向きのことで、「沖縄は第三二軍と沖縄住民にまかせておけ」というのがホンネである。私の戦友たちが沖縄に向け出港した十二月二十四日から、私たちが鹿児島に再集結した翌年一月二十九日とは事情は一変していたのである。当然、二十四師団二十二部隊、独立歩兵砲中隊として沖縄島尻地区に布陣する予定が急に取りやめになったのである。運命としかいいようのない、私に選択権はなかったことであるが、戦友たちをだましたような贖罪の気持ちで責められつづけることになる。

 その後、私は百師団橋口部隊に転属し、鹿児島薩摩半島の防禦陣地づくりに従うことになる。三月末に南薩線の知覧の警備隊の任につき、五月末まで連日のように沖縄に向けて飛びたつ陸軍特別攻撃隊と生活をともにした。七百機をこえる特攻機を見送ったが、これら特攻機の行き先き「沖縄」のことが気になり、無線室で沖縄の戦況に手に汗をにぎっていた。四月一日、沖縄上陸作戦より五月二十日すぎまでの首里攻防戦まで、無線で送られてくる情報を聞いているだけで手に汗をにぎる激戦であった。われわれの第二四師団第二二連隊も、中心部隊であった六二師団にひきずられて次第に損傷を受けつつあるようすであった。沖縄戦は六月二十三日、喜屋武半島、麻文仁の丘で終わるが、わが戦友仲村正儀は中部の激戦地嘉数で対戦車砲小隊長として戦死をし、知念清一は南部に撤退中八重瀬丘で斬込み攻撃をかけて討死、松田正和は真栄平の司令部壕で遺体として発見された。私は一九六一年いらい、何百回となく沖縄を訪れつづけてきたが、それは戦友たちへの鎮魂の旅でもあった。

──ひとこと──
 二年間のつもりで書いてきたが、その半分で終わることになった。軍国主義の青年として生いたってきた過程である。人間の生涯には紆余曲折があり、変転があるものである。「今」の私がどうして生まれたのか、「真の自分とどうして出合ったのか」そのことを問いたかったのである。そのことについてはまたペンを執る機会があればと願っている。

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