第1回/1995年4月号掲載
丸木政臣(日生連委員長※/和光学園園長) ※現在は顧問

鹿児島での別れ


 学徒出陣

 稲刈後の田ン圃の道に
 「日の丸」がうちふられ
 「祝入隊」の幟がはためき
 勇ましい歌声が野良をわたる
 一九四三年十月、
 「学徒出陣」
 生まれてはじめて
 私が群衆の主人公であった。
 世界平和のため
 天皇に殉ずるのは
 青春の大義であった
 「国防婦人会」のタスキの間に
 百姓女の母の顔もあった
 ゆうべおそく母は「千人針」を手に
   あんた人殺しはいかんよ
   あんた死んじゃいかんよ
   生きておかえり、な、
 母は暗がりですヽり泣いていた
 私は母の心を思いながら歩いた
 かたわらの土堤には真赤な彼岸花が
 私はふるさとの人々に
 「お国の為にがんばります さようなら」
 と別離を告げた
 それから二年 戦争は終わった
 私は生きて村の土を踏んだが
 出征した友の多くは戦死し
 白木の小箱でコトコト哭きながら
 村人に迎えられた
 あれから五十余年
 「国際貢献」などと
 青年に銃を執らせる
 暗い気流がまたうずまきはじめた

 1943年10月2日、政府は「学生・生徒の徴兵猶予の停止」を打ち出した。すでにこの年の9月、第3回目の繰上げ卒業生が学窓を巣立って軍門をくぐっていた。この年の2月には、ガダルカナル島を放棄し、4月には連合艦隊の山本司令長官が戦死し、7月にはキスカ島から撤退するというように、緒戦で優勢であった日本が、アメリカのまきかえしにあって戦局の主導権を完全に奪いとられたのである。いっきょに敗勢に傾いたことを自覚した日本政府は、いま一度戦局の転換をねらい軍備の充実をはかった。一つには「軍需生産」に勤労動員と称して300万人の学生・生徒を従事させること、いま一つが第一線の下級指揮官を拡充するために「徴兵猶予の停止」をすることであった。この後者は、俗に「学徒出陣」の名でよばれるが、約15万人が陸軍幹部候補生、特別操縦見習士官、海軍予備学生として入隊していった。促成の教育で、約8ヶ月で激甚をきわめる第一線に投入されていった。翌年十月の台湾沖航空戦、レイテ沖海戦、本土爆撃の迎撃などには、海軍予備学生の飛行科学生が出撃している。「学徒出陣」の戦死者は6万人といわれるので、三分の一以上が死んだことになる。
 私は師範学校を九月に繰上げ卒業、10月10日、熊本陸軍予備士官学校に入校した。ここでは速射砲(対戦車砲)隊に属し、翌年7月初めまで筆舌に尽し難い激しい訓練に明けくれた。一区隊40名のうち自殺者1、病死1、怪我除隊2という数字をみただけでも、飢え、睡眠不足、猛訓練の実態が推察されよう。卒業後、短期間、広島幼年学校訓育班付になるが、9月1日には都城七一部隊五〇三一速射砲中隊に配属された。予備士官学校の速射砲隊では到底想像もできないような速射砲プロパーの精鋭部隊である。小隊6門、中隊42門の37ミリ砲をもち、われわれ見習士官は各小隊に小隊長見習として配属された。おどろいたことに下士官の多くは満州の関東軍育ちで、精兵中の精兵であったことで、ともすれば見習士官は軍曹や伍長から「三番砲は下げて……」などと指示される仕末であった。

 沖縄派遣軍

 44年(昭和19年)の9月から11月のころといえば、内閣も東条内閣から小磯内閣にかわり、九州各地に中国から米軍のB29が空襲に飛来し、レイテ沖海戦では大本営は「大勝利と宣伝しているが、空母、戦艦の大半を失ない、連合艦隊は壊滅したそうだ」という噂が流れていた。たしかに戦局は逼迫していたのだろうが、都城という田舎町は平穏そのもので戦局が敗勢に傾いているという印象はなかった。営内居住をしていたので、酒、タバコ、甘味はもちろん、食べ物に不足することはなかった。「神風特攻隊」の事を報ずる新聞を読んだ日だから10月の末だと思うが、われわれ見習士官7人は、中隊長の「観測班の任務」について講義を聴いた。その後、お茶になったとき「君らは短期間に腕をあげたな、やがて沖縄でM4戦車と対峙することになるが祖国の命運をかけてがんばってほしいな」と中隊長がつぶやいた。「えっ、沖縄で戦さをやるんですか、想像もしませんでした」と沖縄出身の知念清一がたずねた。それにたいして中隊長は「どうも米軍は沖縄を攻めるようだな、7月に第三二軍が沖縄守備軍として編成され、第九、二四、六二の3師団が配置された。10万人近い大軍だから、むこうは何十万人とみているのだろうな、上陸軍対われわれということになるのだから、速射砲の真価を発揮するときがきたというべきだ」とこたえた。速射砲というのは対戦車砲である。よく“初一発”といわれたが、隠れていて敵戦車が現れたら最初の一発で仕留めることが戦勝の秘訣といわれた。でないと打ち損じたら戦車の自動砲の乱射を浴びるわけだから勝ちめはまずない。「沖縄要員」といわれてから、私たちの速射訓練が一段と熱をおびたことはいうまでもない。
 都城というところは丘陵地で、見渡すかぎりの黍畑である。11月になると朝夕は凍てつくように寒くなる。部隊は駅からはなれたところにあるが、駅が近くなると人家が集まり町になるが、町の周辺のお寺や公民館に疎開児童を見かけるようになった。兵隊たちの話では「沖縄からの学童疎開だそうな」ということだった。時折、乗馬訓練で遠出をするとき、道端で三々五々うずくまっている児童をみかけたが、男の子の髪は伸び放題で、女の子も貰い物のボロをまとっていた。私の当番兵の安田兵長は、「この子らは沖縄からやってきたいうとります。話によると疎開船が米軍にやられて、ほとんどが死んだちゅうことですたい。この子らは運がよかったわけですたいのう」と訛りの多いことばで喋ってくれた。戦後になって、疎開船対馬丸が米潜水艦によって水没させられ、700人もの学童が海に沈んだということを知らされたが、私が都城で出合ったのはその生き残りの子どもたちだったのだろうか。
 私たち5人が沖縄派遣軍第三二軍麾下の第二四師団歩兵二二連隊付の発令を受けたのはおなじころであったように思う。亜熱帯の沖縄に赴任するということで、下着類、防暑服など新品が配られた。12月20日鹿児島港に近い軍の宿泊所に移動することになった。それが決まったのは12、3日頃だったと思う。その数日後に私は新型速射砲(60ミリ砲)を受領するために、千葉県習志野に出張を命ぜられた。台湾に転属になった2人と、われわれ5人は同じ列車で都城を出て西鹿児島にむかった。東京空襲の直後のことであり、鹿児島の町は兵隊で溢れていたが、灯火管制で真暗であった。私たち7人は、軍の宿泊所「とぎ屋旅館」ちかくの小料理屋でビールを汲みかわした(不思議とその店が蔦屋だったということを覚えている)。

 沖縄に赴く戦友と別れたり下給品のビールを抜きて

 翌朝、私は東京行き急行に乗り、台湾組、沖縄組はその後数日のうちにそれぞれの任地にむかって船に乗った。

 運命の岐路

 沖縄に行ったのは、知念清一、松田和友、仲村正儀の3人で、知念は沖縄出身、松田は北九州、仲村は広島の出であった。知念はたいへんな感情家、松田は寡黙で温和、仲村は仁侠の士で世話ずき、三人三様であった。知念は酒が入ったので喚きはじめ「うりゃウチナンしじゃ、リンガンミー(青い目)んアメリカーなんじゃ、ブーパン、ブーパンやると」と刀をひき抜いて騒ぎはじめた。松田と仲村が必死に抱きとめて「知念おつつけ、ぶっそうなものを振りまわすな」となだめていた。知念にしてみれば、自分の沖縄にかけつけるということで、異常な興奮の中に在ったのかもしれない。ひょっとしたら戦友であった私が、軍命で同行からはずれるということも彼を刺激したのかもしれない。
 鹿児島の国民学校に集結していた二二連隊本部に赴いて速射砲中隊長に申告した日、グラマンが編隊で機銃掃射を加えてきた。バリバリという発射音に、われわれは瞬間的に便所にとびこんだが、中隊長があわてるようすもなく校庭をつっきって行くのにおどろいてしまった。その中隊長から「おい見習士官、丸木は別命がきておるので大隊本部に行け! あと松田は中隊付、知念は第一小隊長、仲村は第三小隊長を命ずる! この裏側の校舎が居住区だ、3日後に鹿児島港を出るので、みんな営内居住だ! わかったか!」とどなるような声で下命された。陸士55期の和田大尉だそうで、動作がすべてハデで活溌であった。私はこのあと大隊本部で東京出張を命ぜられることになる。そのときは戦友たちと訣別するなどとはツユ思わなかった。二四師団二二連隊速射砲中隊付のまま、任務のために千葉に出張するとしか思わなかった。彼らとは別の船で、受領した兵器とともに沖縄に追尾して渡航するものと思っていた。だから私のほうにも、沖縄組にも訣別の感情など全くといっていいほどなかった。だから蔦屋でビールを飲んで気勢を上げた翌朝、私は明日また逢えるというような気軽さで彼らと別れて駅に向かった。それほどに沖縄渡航ということに緊迫感はなかった。
 私は習志野の歩兵砲連隊に行って、60ミリ砲を受領するだけと簡単に思いこんでいた。来てみておどろいたが、東京とその周辺の都市は連日B29の空襲にさらされ、九州よりもはるかに情勢の緊迫を感じさせられた。学童疎開につづいて密集地の建物疎開もつづけられ、電車や列車はいずれも満員すし詰めであった。誰の目にも戦争が敗勢に傾いていることが明らかであった。私は習志野の連隊と、赤羽の工廠との間を往ったり来たりで日をすごした。ようやくに3mの砲身を装備した60ミリ砲が、12門習志野連隊に搬入された。「ソケ車」という牽引車で引っぱる新型砲である。37ミリ砲については熟練しているが、新型砲については全く初めてであるので、それから習志野連隊の速射砲隊で実兵演習である。ある日、酒保で高級将校たちが激論をしていたのを耳にした。
「あんな威力のある砲は負け戦さの沖縄などに持っていくことはないよ、天皇を守って本土決戦用に九十九里に展開すべきだと思うな」
「沖縄は、本土決戦の前哨戦だぜ。できるだけふんばってもらわなきゃ、本土があぶなくなるんだぜ」
 そのとき耳にしたことは、日本軍が沖縄戦をどう位置づけているかを明らかにするものであった。まだ沖縄戦は始まってもいないのに軍中央は「敗戦」と見、「長期持久戦」と見ていたのである。私が受領して輸送する新型砲も、沖縄に送るのは惜しいといっている。
 私が砲と要員を伴って鹿児島に帰着したのは、1月29日の午後だった。この頃は、制空権、制海権がないという理由で、沖縄派遣は打ち切りになっていた。

『生活教育』ホーム ライブラリーのトップ 次の回へ