第2回/1995年5月号掲載
丸木政臣(日生連委員長※/和光学園園長) ※現在は顧問

知覧の特攻基地から


 知覧

 沖縄に出陣する知念たちと、習志野に新型砲を受けとりにいく私と、生と死の運命の岐れは全く思いももうけない、突然なかたちでやってきた。われわれ下級将校には、太平洋戦争全体の戦局を読むような力はないし、まして情報統制のきびしかった当時としては推測をすることすらもできなかった。45年の1月か2月の段階で、沖縄は本土から切りはなして、沖縄だけで総力戦をやらせる、それも本土決戦のための長期持久戦をやらせる、ということが戦争指導部の中では決まったのである。だから沖縄守備軍の中から第九師団を台湾へ抽出されても、その補充はしないで、沖縄県民の防衛兵、学徒兵によって交替させることにした。私が沖縄に赴任できなかったのも、このような上層部の制作によるものであったのである。そのことで私が命びろいをしたとするならば、沖縄決戦論から、沖縄前哨戦、本土決戦論へという方針転換によるものといえるだろう。
 さて、その後私は薩摩半島吹上浜に配置された第一一〇師団、橋口部隊に転属を命ぜられる。海岸線の丘陵を掘りぬいて、そこに軍艦の大砲を据えつける仕事である。吹上浜は沖縄戦後の米軍が本土に上陸をする予定地と想定されていた。海岸線に兵士をならべて手をつなげば、伊集院から枕崎までとどくといわれるほど大量の兵団が配置されていた。私が橋口部隊に赴任して命ぜられた任務は副官である。副官というのは部隊長の秘書のような任務で、隷下の各中隊への命令伝達、必要物資の調達、警備、連絡などを担当するが、私は新任なので警備、連絡を分担した。ある日、部隊長に呼ばれて本部に顔を出すと、丸山参謀から「知覧の警備に行くように」といわれた。そこで隊長と参謀から地図を指さしながらこもごも「天号作戦が下命されて、知覧が特別攻撃隊の出撃基地になったのだ」という話があった。知覧は南薩線のわれわれが駐屯した日置より二つ位枕崎寄りのところで、橋口部隊の警備区域の中にあった。日置から知覧は20キロ足らず、吹上浜からすると内陸に寄った山間地である。知覧というところは、薩摩藩の108の外域(麓)の一つで、武家屋敷のたたずまいを残す田舎町で、特攻基地がつくられなかったらそれほど有名にはならなかったところであろう。
 私は3月21日、中田曹長、安田軍曹らと、二分隊の兵隊を分乗させてトラックで知覧に向かった。夕刻、知覧陸軍飛行場に到着し、飛行場司令の今津大佐に着任の申告をした。背の高い想像以上に若い司令官であった。将校、兵の出入りで混雑している司令部を出ると、広々とした飛行場に夕闇は迫り、滑走路の斜め右前方に開聞岳(924m)別名薩摩富士がシルエットのごとく屹立して見えた。

 沖縄をめざして

 知覧に勤務してわかったことだが、知覧の飛行場は、沖縄に進攻する米軍機動部隊を攻撃する、陸軍航空隊の出撃拠点ということである。太平洋戦争を大局的にみると、日本は1944年10月フィリピン攻防の入口、レイテ海戦で大敗を喫して連合艦隊の主力を失ってしまった。日本本土周辺まで制空権・制海権をなくし、原料物資を輸送できないので戦争経済は崩壊に瀕し、戦局の挽回の見込みは全くなくなっていた。グァム、テニアン、サイパン島、やがては硫黄島、中国基地からB29の本土空襲がはじまり、退勢のたて直しの難しいことは誰の目にも明らかであった。この44年10月のレイテ海戦で始まったのが「神風特別攻撃隊」の体当たり攻撃で、後に「神風攻撃」とも「特攻」ともよばれることになった。かんじんな空母を失った日本軍は、退勢をたて直すにはこの「特攻」以外に途がないと判断したのであろう。
 太平洋戦争中出撃した「特攻機」は全部で2500機といわれ、そのうち1900機が沖縄に押し寄せた米機動部隊に突入したといわれる。これはじつに四分の三にあたる。なぜこれほどまでに日本軍は沖縄に固執したのか。それは米軍が沖縄を重視していることを察知したからということになろう。米軍の目標は日本本土の攻略である。そのためには日本本土爆撃の戦略基地としては沖縄は恰好であるし、準備基地としても有効である。沖縄を手に入れれば、米軍の爆撃機はB29はもちろん、B24ですら余裕をもって日本本土への攻撃ができることになる。日本としては、本土を死守するためには沖縄戦で米軍を圧倒しなければならなかったのである。
 さて知覧の飛行場に戻るが、ここはかつて大刀洗(たちあらい)飛行学校の分教場がおかれたところだが、沖縄戦が戦略構想の中に浮上するのと軌を一にして、陸軍の出撃基地として昼夜兼行の飛行場拡張工事が行われた。そして45年になるや陸軍航空隊の「特攻」基地になった。私が派遣された頃には、第六航軍(九州地区航空兵団)の今津大佐以下の軍の幹部や基地勤務員が基地に溢れていた。元少年航空隊の兵舎が本部にあてられ、将校集会所などもおかれていた。そこで状況分析の学習会があり、司令はじめ、参謀たち、航空隊教官、整備隊、警備隊の将校たちが顔をならべた。30人位もいただろうか。今津大佐、参謀の河元中佐、田中中佐、後藤少佐、北原少佐などが中心だったが、その話は私にとって初耳のことばかりであった。
「昨日(3月23日)早朝から米機動部隊は、沖縄本島ならびに慶良間(=けらま)諸島にのべ500機による空襲をはじめたが、今朝6時からは、空母18隻、戦艦10隻、合計50隻以上の艦艇が激しい艦砲射撃を開始した。わが偵察機からの情報によれば、米軍は明白に沖縄本島に上陸を準備中と思われるが、その時期は1週間以内であろう」

 沖縄ヲ守レ

 ほとんど情報らしきものを持たなかった私も、知覧で1日、2日と過ごすうちに、知覧という山あいの町が、沖縄で始まろうとしている戦闘を支援する第一線の基地になっていることを実感した。私が勤務についた3月21日ころから、右腕に日の丸の印をつけた特攻隊の兵士、整備隊員、防衛隊員などがぞくぞくと知覧に集まってきた。飛行場内の隊員宿舎に入るものもあったし、麓川沿いの軍指定旅館の内村旅館や永久旅館に入るものもあった。私たちの仕事は飛行場正門の衛兵と巡回、知覧駅の検問所勤務であったが、飛行場の主目的は特攻攻撃にあるわけだから、町全体が緊張に包まれていた。操縦員は陸軍士官学校出身の現役組はわずかで、多くは私と同じ学徒兵=特別操縦見習士官(特操)か少年飛行兵であった。年齢は私と同年位(20才か21才)が一番多く、なかには17、8才もふくまれていた。現役組の将校の中には飛行時間1000時間をこえる熟練者もいたが、多くは200時間そこそこの未経験者で、爆弾を抱えてとぶのはそのときが初めてという者が多かった。操縦員は、岐阜県の各務ヶ原、三重県の明野、山口県防府、大阪府大正、福岡県大刀洗などの飛行隊や飛行学校で、7機、10機、12機というように編隊が編成され、それぞれ隊長に率いられて知覧に進出してきた。飛行機は「隼」「九七式」などの戦闘機で、米機動部隊の艦船に飛行機もろとも体当たりをするために、機体に250キロの爆弾を装着した。知覧が特攻基地になったのは、沖縄までの距離が650キロメートルで、九州の南端に位置したことによる。当時の日本の戦闘機の航続距離は1050キロメートル位だから、沖縄までたどりついても帰るだけの燃料はなかった。生還の望みの全くない攻撃だったのである。知覧から出撃する特攻機は第○○振武(しんぶ)隊と名づけられ、ここに1日、2日泊って、飛行機の整備、爆装をし、司令や作戦参謀の指示をうけてあわただしくとび立っていく。
 3月23日、17時30分、慶良間諸島に出撃した阿部隊の長野光広少尉は「あとでわが家に送って下さい」と私に一片の紙きれを託した。それには毛筆でこう書いてあった。
「明日出撃トノコト、皇国興亡ノ一戦、沖縄ヲ死守セヨトノ命ニコタヘ、特別攻撃隊ノ一員トシテ、悠久ノ大戦ニ生キルコトハ男子ノ本懐、必死必中ヲ以テ大恩ニコタヘルノミ、父上母上ノ御健勝ヲ祈ルヤ切ナルモノアリ、皆ノ多幸ヲ祈ル」
 6機ずつ2編隊が、慶良間に出撃。飛行場の将兵、女学生たち、町の人々が日の丸の旗を打ち振って見送った。1機、また1機と離陸して空中で編隊をつくり、南の空に消えていった。特攻機の去っていったかなたには開聞岳が夕陽に屹立して見えた。私は「沖縄ヲ守ル」という青年たちの決意に心をうたれ、熱い涙をかみしめたものである。

 我、突入ス

 雨の日に将校集会所で、河元浩中佐や田中耕二中佐ら、作戦参謀による作戦に関わる学習会が開かれた。私は警備隊の仕事としてその傍にいた。正面には、大きな鹿児島から沖縄までの航図が掛けてある。種子島、屋久島、奄美群島、徳之島、沖永良部、与論、伊平屋、伊江島、沖縄海岸、中飛行場……、650キロメートルかなたの沖縄本島までを眼でたどりながら、私が赴くはずであった部隊はどこに展開しているか、知念、松田、仲村らが属している第二四師団はいまどこにいるのか。私は沖縄に向けて出撃する知覧で、参謀たちの敵情説明をききながら、私が行くべきはずであった沖縄のことを思っていた。
 26日、朝6時、米第七七歩兵師団は、沖縄本島の西方30キロの慶良間諸島、渡嘉敷島、座間味島に上陸を開始した。偵察機からの報告によると、米軍は約30万、わがほうは水際戦闘を放棄したもよう。米軍の作戦はここに機動部隊の基地を確保し、本島の西海岸、この地図の嘉手納方面に上陸してくるものと思われる。上陸の予定は4月1日から5日までの間。基地通信隊が傍受した無線情報(米艦船間の無線連絡など)も合わせて考えると、敵空母は40隻以上、戦艦20隻以上、わが偵察機によれば沖縄を包囲するミッチャー機動部隊の艦船で海面は黒く覆われているというから、推測するに艦船2000隻ということになろう。敵が沖縄攻略にかける意気ごみのほどがわかるが、同時にこれから上陸用舟艇で揚陸がつづく間は、わが「天号作戦」の最高の時期ともいえる。──河元中佐、田中中佐の解説は大要こんなことだった。
 田中中佐は、顔をひきつらせるように、
「わが軍の攻撃は、いまや“十死零生”の特攻にしか頼れない。沖縄海域に入ったら高度1000とし、眼を閉じることなく、操縦桿を握りしめ、敵艦に照準を合わせて突っこむことだ。死んで護国の鬼となる精神こそが活路を開くのだ」
と吐き出すように語った。
 4月1日には、予測通り米軍は沖縄本島の中部西海岸に上陸を開始した。1日のうちで6万人の兵員を上陸させた。この間に3月26日についで、29日、31日と特攻機は慶良間周辺の米艦船に体当たりを決行した。知覧基地の空気も殺気だつほどに張りつめてきた。1日には夕方17時から17時30分までに、第二三振武隊10機、誠三九戦隊6機、飛行一七戦隊7機が相ついで出撃した。めざすは嘉手納海岸の空母、戦艦、駆逐艦、輸送船である。目的地点に到達するのは150分位あとで、その頃は通信室に上級士官が集まって戦果にかたずをのむことになる。隊長機につけられている無線機から「ヴァージニア発見、我突入ス」と第二三振武隊長伍井中佐から打電してきたときは、萬歳、萬歳の声が爆発した。しかし援護機のない悲しさ、多くの機が途中で撃墜されたもようであった。

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