第3回/1995年6月号掲載
丸木政臣(日生連委員長※/和光学園園長) ※現在は顧問

沖縄無残なり


 ワレ生還ヲ期セズ

 3月末になると各地の飛行隊や飛行学校からぞくぞくと腕に日の丸をつけた特攻隊が、知覧飛行場にやってきた。私たちの仕事も忙しくなり基地の空気もピリピリと張りつめてきた。宿舎の確認で名簿をみていたら「陸軍中尉松田豊」の名があった。一級上の先輩で2年間寮生活を共にした仲である。特別操縦見習士官(特操)になったとは聞いていたが、この飛行場で逢うことになろうとは奇遇である。私はその日の夜、麓川に面した内村旅館に松田さんをたずねた。顔見知りの親爺さんに来意をつげると、特攻隊員でごったがえしている中を松田さんを呼んできてくれた。お互いに2年ぶりということもあって「なんだお前か」「やあ元気で」と手をとり合った。二人は道むかいの富屋食堂に行ってビールを飲んで、その後の消息を語り合い、旧交を温めた。松田さんは柔道三段で体重80キロの巨漢であったが、久しぶりにみると軍服がぴったり合って少しやせた感じであった。彼が大刀洗教育隊の教官伍井中佐に率いられ10名でここに来たこと、沖縄への出撃は明後日朝(4月1日)であることなどをききだした。「貴様に逢ったのは幸運だった、明日、遺書を書いておくからわが家に届けてくれよ、たのむ」といって手を伸ばした。私もうなずきながら彼の手を固く握り返した。
 4月1日には米軍が沖縄に上陸した。
 陸軍は知覧、海軍は鹿屋から、連日のように嘉手納湾にむらがる何千隻もの米艦船にたいして特攻攻撃がかけられた。知覧から嘉手納は650キロメートル、2時間半かかるとして夜明けか薄暮かに攻撃を敢行することが敵に発見されにくい。したがって朝5時、夕方5時に出撃することが多かった。4月1日は正午に命令が出て4時に出撃になったが、松田中尉の第二三振武隊10機、ほか5編隊34機が出撃をした。沖縄の情勢が風雲急をつげていることはわかっているので、特攻隊員たちの態度にも気迫がみなぎっており、特攻機を見送る国防婦人会、女学生、町の人たちが飛行場入口につめかけていた。そんな中、日の丸の波にこたえるように飛行機は1機また1機と進発していった。
 30分たったころから故障機が引き返してきた。飛行場はまた緊張につつまれる。帰還機が6機あり、その中に松田機もまじっていた。整備兵がかけ寄ったが、あきらかなエンジンの故障で「おんぼろ機ばかりでして、これじゃ引き返すのがやっとでしたな」という話であった。理由は、はっきりしていたが、松田中尉は青白い顔で、悄然としてぽそっと「命が惜しいわけじゃなかった」と自分に語りかけるように言った。松田中尉が2度目に出撃したのは4月6日、「菊水一号作戦」による第二次特別攻撃隊攻撃の日である。この日は松田中尉の第二三のほか、第二二振武隊、第四三、第四四、第六二、第一の計40機が、朝4時の集合で戦闘指揮所前に集まった。各隊で点検が終了すると、河元浩中佐が偵察機「紫電」のもたらした情報をつたえる。「昨夜来嘉手納湾には、戦艦ノースカロライナ、空母サンハシント、バーネットほか、巡洋艦、駆逐艦など50隻が集結、人員、物資を揚陸中である。つづいて今津基地司令が前に立ち「一機一艦ヲ奢り一身ヲ捨テテ悠久ノ大義ニ生キテホシイ」と訓辞をし、作戦参謀金沢少佐の指図で各隊ごとに飛行機に搭乗する。
 松田中尉は2番隊の1番機である。搭乗席に入るとき私のほうをむいて手をあげた。女学生が一人走りよって満開の桜の小枝を手渡した。松田中尉はそれを座席の横にさした。機は1機、2機と勢いよく飛びたち、桜の花びらがその後しばらく空に舞っていた。松田中尉の遺書の一節には「命愛シカレド、ワレ生還ヲ期セズ」とあった。

 水上特攻ヤマト

 4月6日。知覧の第二次特攻総攻撃の日。松田中尉が汚名挽回の出撃をしたとき。通信隊は沖縄アメリカ艦船間の無線の交信を傍受している。通信隊情報係将校が通信用紙に「〇六四五 北西、怪物接近中、自殺機命中、火災発生、マタ爆発」「〇六五三 バーネット右舷ニ自殺機、曳キ船タノム、ケラマニ向ウ」などと書きこんでは作戦参謀に渡す。特攻機による被害は、艦船にたいする直接的攻撃だけでなく、カラスの群のようにあらわれた日本機がまっすぐ自分たちに体当たりしてくる奇想天外な作戦に、おびただしい戦闘疲労者(神経症)を出したことなどにもあらわれている。
 4月7日にも総攻撃で知覧は“火の玉”のように燃える感じであった。ふだんの通り私は通信室で無線情報をきくことになるが、おどろくべき情報がもたらされた。情報係の栗原少尉は傍受した無線記録を片手に「戦艦大和、巡洋艦1、駆逐艦8が、ミッチャー空襲部隊の攻撃を受け、7日、前10時、20本の魚雷を命中させられて航行不能……巡洋艦矢矧と駆逐艦浜風は轟沈、ヤマトを含む第一遊撃部隊は『菊水一号』作戦の下命により、沖縄をめざして徳山沖を出航、豊後水道から徳之島をさして南下中……」と書き「これはえらいことですな」と田中、山河、金沢参謀たちを見まわした。大和といえば、日本海軍の誇る新鋭巨艦で、この旗艦が健在であることがどれ位国民を慰撫していたことか。無電のキーはけたたましく動きつづけている。電信係の下士官たちはつぎつぎに受信票を栗原少尉に送る。スピーカーから流れる信号音は受信票に書かれるが、その1枚に「一一・一〇、ギョライ6パツメイチュウ、ヤマトチンボツ、フユヅキ、ユキカゼシズム、トクノシマ290ド、90マイルチテン……」と訳文がしるされていた。
 たいていの悪いニュースには馴れっこになっていたが、“大和沈む”という報にはおどろいた。
「大和が沖縄に出るとはどういうことでしょう。戦艦が飛行機の援護なしに出かけるというのは自殺行為じゃないですか」
と、かたわらの参謀たちに質ねた。
 この思いは、通信室につめかけていた十数人に共通する思いでもあった。するといつのまに来たのか今津大佐がこたえた。
「その疑問はあるだろうな。先日の第六航軍の作戦会議のおりにも、4月6日のわれわれの特攻にあわせて、海軍の“菊水一号”作戦を決行する報告があったのだ。つまり大和によって海軍は最後の水上特攻をやろうと決意したのだ。……沖縄の陸地にのり上げて陸上の砲台にしようとしたのだ」
 私はなおも「船で沖縄にたどりつけるんでしょうか……」とかさねてただした。河元参謀がこういった。
「大和という船は停泊しているだけで、月に2000トンの油を食うといわれとる。むざむざのたれ死にするよりも、沖縄で死に花を咲かせようとしたんだろう。片道だけの燃料だったというから、貴様のいうように死に場所をさがしたということもいえるだろうな……」
 私は以前に武蔵や大和には3000名もの乗員がいると聞いたことを思い出し、水上特攻によって3000名の人々が海の藻屑と消えたことに暗澹たる思いであった。
 沖縄を失陥すれば、本土決戦の軒先に火がつくので、奇跡に似たことを信じて大和の水上特攻を企てたものであろう。そういえば知覧や鹿屋からの特攻機にしてもおなじことで退勢の挽回にはならないのではないか。7日の夜、通信室の栗原少尉のもらした「二二、二九、四四、四六振武隊米艦船撃沈」の報をききながら、それも些細な軍隊の美学のように思えて淋しくひとり酒を飲んで寝た。

 沖縄の命運尽きる

 4月8日、花曇り、特攻隊あいついで着到し、飛行機の誘導、擬装などで騒然としている。陸軍の部隊には「命令受領」という形式がある。部隊長が副官を通じて、隷下の各中隊に状勢を分析し、諸要の任務を伝達するもので、各中隊からは指揮班の責任者が本部に受領に集まってくる。知覧の基地では朝8時に基地本部で指令副官の福島中尉が命令伝達をやり、教育隊、警備隊、整備隊、保安隊、工作隊などが伝達をうける。8日の命令伝達は異常で、今津司令、中田作戦参謀、福島中尉が顔をそろえ、今津司令から「7日の攻撃において、第二二振武隊5機、第二九振武隊6機、第四四振武隊4機、第四六振武隊5機、第七四振武隊7機、第七五振武隊7機を出撃させたが、この34機のうち不時着3機、エンジン不調で帰還したもの8機をかぞえる。じつに三分の一が攻撃を中断している。もちろん飛行機の不良もあろうが、攻撃隊員の志気の低下もあげなければならない。臆病風にふかれて出撃以前に体の不調をあげつらうものもある状態である。沖縄の防衛のためにわれらの任務がいかに重大であるかを考え、隊員の志気を昂揚するようにつとめてほしい。福岡の第六航軍菅原中将よりも昨夜とくにこの点について注意があったことを伝えておく」という異例の話があった。そういえば出撃にあたって故障する特攻機がふえており、途中から引き返す機もあって、なんとなく沖縄戦の展開と相俟って、特攻作戦そのものにかげりを感じていたところである。そうしたなかでも、4月は出撃がなかった日は5、6日で連日若者たちは死地に赴いた。私の記憶するかぎりとくに16日、28日の総攻撃はすさまじく各50機以上が出撃した。しかし実戦機が不足して、練習機や旧型機にも爆装して出撃する有様で、特攻隊員の中に「あれでは目的地までいきつけない、まるで自殺とおなじじゃないか」と語られていた。目的地も、米軍が沖縄の陸地深く入ったので、嘉手納湾から那覇西方洋上、慶良間湾、沖縄周辺洋上などに移っていった。沖縄で死闘をくりかえしている第三二軍10万人の戦いに呼応して特攻攻撃は計画されるようで、5月4日、5月16日には知覧からの特攻作戦のピークともおもえるような果敢な攻撃が行われた。5月4日、特攻に随伴した偵察機「疾風」は「那覇に至る西海道では、いたるところでわが軍の防衛線が破られ二四師団は孤立の危険に立たされている」と報告し、5月16日夕方には「首里南西の五二高地は米軍の手中に帰し、三二軍の命脈は5日間もつかどうか」という悲観的な状況をつたえてきた。
 5月25日、集会所で司令の主催する将校集会が開かれた。急に気温があがり南国の昼さがりは耐えがたい暑さであった。基地に勤務する30名ほどを前に今津大佐の紹介した第六航軍杉田少佐がこんな話をした。
「昨24日、熊本健軍基地より義烈空挺部隊が重爆12機とともに沖縄中飛行場に特攻を強行、112名が戦死、米軍機29機を破壊した。壮烈な行動によって沖縄現地軍に活力を甦らせようとする快挙であった。しかし第三二軍は首里周辺の前哨陣地をことごとく米軍に奪われ、麾下六二師団、二四師団も三分の一の兵力を残すのみとなって、ローソクの火のごとく消滅寸前に立ち至っていると思われる。第三二軍司令部が大本営に打電した『まさに戦略的持久は終焉せんとす』という電文を傍受しているので、全軍玉砕、沖縄戦集結の日も近いとも察せられる……」
 私はこの日の夜、任務をとかれて日置の部隊本部に帰任することになる。あとでわかったことだが、この日が沖縄軍の首里から摩文仁への撤退の日であった。敗勢に傾いているのに、知覧基地では明日の出撃準備で灯火管制の下で夜を徹する作業が行われていた。

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