第4回/1995年7月号掲載
丸木政臣(日生連委員長※/和光学園園長) ※現在は顧問

「鉄の暴風」のもとで


 首里放棄

 私は吹上浜に展開している橋口部隊の本部に帰任した。吹上浜というのは、薩摩半島西側の海岸で市来から高崎鼻まで、60キロにわたって白浜青松の砂浜が続いている。沖縄戦を準備するころから、本土決戦に当ってはこの吹上浜と九十九里が米軍の上陸チテンにあげられていた。戦後、米軍の発表にも吹上浜9月、九十九里浜11月とあったことからしても日本のアメリカの思惑は一致していたことになる。吹上浜の背後には日吉、日置、永吉、吹上の町や村の背後に脊梁山地があり、この山を海岸に向けてくり抜き、ここに海軍の艦砲を据えつけて砲台化する計画が進んでいた。私は部隊本部に勤務したが、日置駅に近い城山というところに陣地があった。そこには部隊本部と通信部、参謀室、管理部、工事部、糧秣部などが置かれていて、将校・下士官・兵隊の出入りが頻繁であった。
 私が橋口部隊長に、知覧の勤務の概要、特攻攻撃の近況などを報告すると、うなずきながら黙って聞いていたが「十中零生か、それは戦の邪道だな、かわいそうにな、沖縄戦もいよいよ終わりだな」といわれた。私はおそらく不審な顔をみせたのだろう。部隊長は「貴様はさっき特攻に高等練習機も使っとるといっただろう。それじゃ一発必中の攻撃はやれんわ。それで搭乗員も逃げ腰になるんじゃ……。ここで聞いていても沖縄はようくがんばっとるが、なにせ敵の兵力と兵器には勝てんな。首里の主陣地は5月一杯だろうな」といって瞑目された。
 陸軍士官学校から西部軍参謀本部を歴任してきた人だけに、戦局の読みはたしかだった。部隊長の指示で、通信部に行って沖縄関係の通信用紙の束を持ってきた。
「〈5・24、16・45〉彼我対峙線、運玉森、一五〇高地、石嶺、大名、安里の線、戦車60、兵員500、与那原に侵入、迫撃砲の援護下、所在の我が部隊と交戦中である。敵は兵力の消耗をさけようとして、戦車による火炎放射と砲撃、300メートルチテンにおける砲兵の零距離射撃を加えつつあり……」
「〈5・25、10・00〉敵海兵師団戦力を補強し未明より戦車を先頭に大攻勢、首里、那覇を結ぶ線、与那原主陣地に逐次滲透し来たれり。24日、25日は豪雨。道路は泥濘と化するなか、避難民弾雨の下を南下。わが軍の被害も少なからず苦戦を強いられており」
「〈5・25、15・45〉敵約2師団、首里城に迫り、東・西陣地で白兵戦。わが軍果敢に反撃を加えつつあるも、第三二軍司令部南部喜屋武半島に撤退を始めたり」
「〈5・31、18・00〉沖縄本島天候回復。陸軍振武特攻機40機、三波に分かれて、那覇、小祿、糸満の敵艦船に壮絶な体当たりを決行。首里より南部地区への撤退作戦を支援し戦果を挙ぐ」
 知覧の基地で見ていた通信紙は、知覧発特攻機の戦果確認を主とするものであったが、此処吹上浜の部隊本部で手にするものは戦局全体の動きであった。西部軍司令部がキャッチした情報だから、日本本土の空襲被害から太平洋全戦線にわたるが、この時期は沖縄戦線関係がもっとも多かった。それだけに沖縄は日本の命運を賭ける戦いであったのだ。
 私が携えた通信用紙をめくりながら、橋口部隊長は「三二軍はついに首里を放棄したな。それにしても2か月間、よくもったものだな」とぽそりといわれた。どこにも「首里放棄」とは書かれていないが、作戦の専門家の目には泥濘の中を首里から南部に逃避行をつづける、数万の郡民の姿が映じていたにちがいない。部隊長は「そういえば丸木副官は沖縄二四師団所属だったな」といわれたが、その後のことばはなかった。

 捨石タレ

 部隊本部は城山の中腹の洞窟陣地にあった。3か月間の工事でほぼ完成していた。監視哨に立つと海上はるかに甑島(こしきじま)が長く横たわり、左手には小じんまりした久多島、その左手にはかすかに高崎鼻が見えた。お天気の日には、一望のもとに展観できる吹上浜に沖縄のようにアメリカ軍50万人が上陸してくるのだと思うと、現実感はないものの戦慄を覚えた。
 6月も中旬のこと。神之川の砲台陣地に視察にいった帰り、本部の将校たちで語り合ったことがある。誰いうともなく沖縄戦の推移が主題となった。私は数日前に手にした沖縄守備軍の発した大本営宛の「わが戦略的持久は終焉せんとす」という電文について、「これは守備軍の訣別の電報だと思うんですが、どうして硫黄島のような玉砕を認めなかったんでしょう。どうも釈然としませんね」と話した。参謀の増島少佐、管理部の高野中尉、情報係の多田少尉が傍にいたが、高野中尉は「沖縄守備軍の任務はできるだけ長く米軍を沖縄にひきつけておき、多くの損害を与えるという持久戦にあったんだから、簡単に玉砕したら困ると思うよ」といった。多田少尉は「それにしても沖縄には兵団も、物資も補給がないわけだろう。兵力も圧倒的に優勢な米軍と戦って消耗の限りをつくしても自決の決定もできないというのはむごいと思うな」といった。「高野中尉は沖縄戦は持久戦だといわれましたが、もともと首里の攻防戦からあとの作戦計画があったんでしょうか。どうも納得がいかないのですが──」と私がいうと、増島少佐が「その疑問はもっともだと思うが」と前おきして、作戦の専門家らしい話をしてくれた。
「沖縄第三二軍というのは、第九師団、第二四師団、第六二師団、独立混成第四四旅団、第五砲兵団を基幹とする95000人の兵団だったのだ。ところが大本営は、第九師団を台湾に抽出することになり、戦闘の迫った19年12月にこの師団を台湾に移動させた。兵力の三分の一を失い、あとは補充しないのだからひどい話で作戦計画の根本的な変更が必要になった。それまでの米軍を上陸地点で叩くという攻撃本位の作戦をやめて、できるだけ内陸の狭隘部にひきよせて長期持久戦をするということにきりかえたのだ。いやそうせざるをえなかったということになる。つまりそうした時間稼ぎをしておいて、本土決戦の準備をするのだ。そうすると沖縄は〈捨石タレ〉ということになるから、できるだけ長生きしてもらわないと困るというわけだ。いま首里の司令部が陥落したあとの作戦はあったのかということだったが、おそらく作戦計画といえるようなものはなかっただろう。ただ首里からあと喜屋武半島へということになれば、そこの地形も集落も全部わかっているだろうから、残存の部隊でどう戦うかはすぐ計画立案できると思うな。つまり臨機応変ということだろう」
 大本営は「沖縄島に尺寸の土地が残る限り一兵まで戦え」といったといわれるが、増島少佐の話は私たちの疑問を十分に納得させるものであった。
 阿南陸軍大臣の告諭が「兵団報」に載ったのはそのあとであった。それにはこう書いてあった。
「沖縄の戦局いまや重大な段階に立ち至れり。我軍全線に亙って勇戦敢闘するも苦戦、彼我戦力の差漸く顕著なり。この後、敵の本土上陸作戦必至と見なさざるを得ない。敵は沖縄に確保した基地より、本土上陸作戦を企図するものと予測される……」
 戦争指導者たちは、沖縄の敗戦を推測し、それにつづく「本土決戦」の準備に狂奔していたのである。そういえばわれわれの吹上浜にも、決戦用の補充兵が毎日のように各地から送られてきた。

 秋を待たで枯れゆく島

 情報係の多田少尉の携えた通信紙の束に次の1枚があった。
「〈6・19、14・30〉国吉の防御線を破られ山部隊司令部、歩兵連隊孤立、摩文仁球兵団司令部に訣別の電報、全員斬込みを敢行せり……」
 知念、仲村、松田らが配属されたのは第二四師団(山部隊)の歩兵第二二連隊である。沖縄戦に参加した彼らはどうなったか、その消息は私にとって一番の関心事であった。いっときたりとも忘れたことはなかった。沖縄戦の推移を伝える一枚の電信用紙に「これ、俺が所属する部隊だ!」といって、ひきちぎるように電信紙をにぎり声もなかった。はじめて見た山部隊司令部の消息、それは部隊の玉砕をつたえるものであった。
「〈6・19、16・00〉牛島中将は次の訣別電報を大本営に打電した」として電文で埋まった電信紙が届けられた。
「大命を奉じ挙軍醜敵撃滅の一念に徹し、勇戦敢闘三か月、全軍鬼神の奮戦力闘にも拘わらず、敵の攻勢を粉砕する能はず、事態正に危急に瀕せり。麾下部隊本島進駐以来現地同胞の献身的協力の下に鋭意作戦準備に邁進し来たり。敵を迎へるにあたっては航空部隊と相呼応し、沖縄防衛の完璧を期したるも、小生不徳の致すところ事志と違い遂ひに負荷の重圧を果す能はざるに至れり、上陛下に対し奉り、下国民に対し、真に申訳なし……長恨千歳に尽くることなし。最後の決闘に当たり既に散華せる麾下将兵の英霊と共に皇室の弥栄を祈念し……
  秋を待たず枯れゆく島の青草は 皇国の春に甦らなむ 」
 牛島中将が命運を賭けた総攻撃は、陸軍省発表によると6月20日で、「爾後、将兵の一部は島尻の各拠点において死守敢闘しつつあるも、23日、牛島司令官、長参謀長は摩文仁丘に於て自刃せり」とのことであった。

 私にとって沖縄というのは南海の未知の島であった。私の所属する本隊が第二四師団で、それが沖縄に渡ったというだけで「第二のふるさと」のような心のつながりが生まれた。といっても戦争の日々、私は沖縄の地図を見て650キロメートルの海の果てを思い、戦友たちの消息に思いをはせるだけであった。戦況に聞き耳をたてるので、読谷、嘉手納、普天間、糸数、首里、識名、南風原、那覇、糸満、真栄里、摩文仁など地名にもすっかりなじんだ。しかし行ったこともないし、そこに立ったこともない、ただ憧れの土地だから具体的に思い描くものは何もなかった。
 ただ、通信の中に「5月25日以来天候悪化、28日は豪雨、道路、畑に川溢れ、泥濘膝を没する中、兵にまじって避難民数万人喜屋武半島に向う。艦砲射撃、爆弾間断なく死傷者も散乱する」とか、陸軍大臣が知事宛に「敵上陸以降全力を挙げて軍に協力された県民各位に衷心より感謝を申し上げる」とか言っているなかに「避難民」「県民」「住民」などとあると、沖縄と戦争には無縁な人々とが結びついて私の想念をゆすぶってくる。戦争とは、国と国の軍隊が戦うものと思ってきたが、沖縄戦は沖縄県民の生活の場で、県民をまるごと巻きこんで戦われてきたのだということをいやというほど思い知らされるのである。
 7月に入ったら沖縄の基地から米軍の中型機が飛来して、集落や陣地に爆弾を落としたり銃撃を加えたりするようになった。そしてこんなチラシも何千枚も散布された。

オキナワの戦さもおわりました。日本中の都市が灰になり、毎日十万人のひとが死んでいます。なつかしい君のふるさとが待っています。天皇のために無駄な死に方をするのはやめよう。早くお母さんのもとに帰りましょう。

 赤いザラ紙に刷られた米軍の降伏勧告文は、戦争の終わりが近いことを予感させていた。

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