第5回/1995年8月号掲載
丸木政臣(日生連委員長※/和光学園園長) ※現在は顧問

八月十五日


 吾はウチナンチュー

 7月は青い空を見たのはかぞえるほどで、雨の日がつづいた。洞窟陣地の構築や砲台建設の仕事は「本土決戦」の重圧の中で昼夜兼行でつづけられた。晴れた日には沖縄から飛来するB24やB29の爆撃が、九州の都市や町の全部を焼きつくすような勢いで、7日、西鹿児島、川内、水俣、都城、12日、大牟田、熊本、八代、荒尾、佐世保、13日、福岡他九州全域、17日、鹿児島、枕崎、串木野、川内、伊集院など灰燼に帰した。雨の日は空母が接近して、艦載機が沿岸の軍事施設に焼夷弾を投下したり、銃撃を加えたりした。吹上浜だけでも多いときは100機以上が低空で攻撃してきた。搭乗員の顔が見えるほど急降下を繰返すこともあった。
 7月の末、伊集院の兵団本部に用事で出かけたとき見た新聞には「米国、英国、ソ連三国首脳、独ポツダムで会談、我国に降伏勧告を発表」として、17日から10日間も行われたポツダム会談を報じていた。政府、大本営は、「本土決戦に皇国の興亡を賭け、頽勢を一挙に挽回」と気勢を煽ることに懸命であるが、「ポツダム宣言」発表の記事はもはやこの戦争が土壇場にきていることを物語っていた。敵機が空から撒くデンタン(チラシ)にも、「日本良イ国神ノ国、明日は爆弾灰ノ国、命ヲ救ウ『ポツダム宣言』ノ発表」と書かれていた。吹上浜の陣地構築部隊にも、「本土決戦なんて出来っこないのでは」という悲観的な空気がひろまっていた。8月、戦闘準備完了という至上命令であったのに、作業は三分の一も進んでいなかった。連日の空襲による資材の搬入の滞りが最大の原因であった。
 8月2日の夜のことだった。串木野憲兵分隊から電話連絡があり、橋口部隊本部の兵隊2名を逃亡兵として検束したので直ぐ引きとってほしいとのことであった。本部にも小隊位の要員が配置されているが、早速に非常呼集をかけて調べると幸喜兵長と米須一等兵が昼間の作業から帰っていないことがわかった。川瀬小隊長と私が逃亡兵を引き取りに串木野に向かった。串木野というのは日置から10キロ余り北にある漁港で、沿岸では枕崎につぐ町であった。二人の兵隊が捕らえられた事情というのはあらましこんなことであった。
 防波堤の内側には沖合漁から帰ってきた船が所狭しと繋留されている。多くが小型発動機船である。二人の兵隊は、一艘の船にパンや水、洋服、毛布などを運び込んで、船を盗んで出航する準備をしていたところを、他の船の漁師にあやしまれて駐在所に届けられたという。
 憲兵分隊の狭い部屋には、憲兵軍曹の前に二人がぼんやりと椅子に座っていた。軍曹は調書を読み上げるように説明をした。
「兵長は幸喜良男、一等兵は米須義秋といいます。二人とも沖縄県の糸満町の漁師です。要するに沖縄が船上になり、自分の家のことが心配なもんで帰りたかったというとるんです。兵器はもっとりませんので逃亡兵扱いではなく帰すことにしました」
 私や小隊長が「どうしたんだ、あんな小さな船で沖縄まで行くつもりだったんか」というと、朴訥そのものの二人はぺこぺこ頭を下げて「ご迷惑をおかけしました」と謝った。そして幸喜兵長が、「わしらウチナンチューですんで、ウチナがどうなっとるか心配でした。育ちが漁師ですから、航図を頼りになんとかしようと思うとりました」と喋った。兵長の前にはどこで手に入れたか航図が拡げてあった。「大隅海峡」「口永良部(くちえらぶ)島」「吐喝喇(とから)列島」「奄美大島」「徳之島」「沖永良部島」「与論島」「沖縄島」の島々。幸喜兵長と米須一等兵の眸は思いつめたように光っていたが、この東シナ海の島々の果てのウチナは、650キロのかなたにあるのだ。

 原爆投下

 8月7日の午後、部隊本部に「兵団報」が届いた。橋口部隊長はタブロイド版の新聞紙を開いて「広島に新型爆弾投下か、これは原子爆弾というのだろうな」といいながら私たちのほうに新聞をまわした。見出しには、大きく「広島に新型爆弾投下、戦争遂行上の焦燥の表はれ」と書かれていた。
 6日、午前8時すぎ米B29が広島に侵入して一発の新型爆弾を投下した。この爆弾は落下傘によって降下され、空中に於て破裂したもののごとく、その威力は目下調査中であるが、市内の多くの家屋が倒壊、各所で火災が発生、相当数の人名が失はれたる模様である。軍はあげて被害の詳細を調査するとともに広島市への救援に力を傾注している。敵が無差別の非人道的兵器を使用したことは、この戦争遂行に於て我が方の抵抗が大きく、焦燥感が大きくなっているものともみられる。
 1日、2日と日が経つにつれて、広島へ投下された爆弾が原子爆弾であり、広島市は廃墟と化するような甚大な被害を蒙ったことがわかった。私は、8月9日には、八代市の歩兵隊に出張した。われわれの部隊に入隊する補充兵の打ち合わせをするためである。11時頃のことであった。勤務員たちが「あれはなんですか。大変な爆発のようですよ」といって2階の窓越しに海の方を眺めていた。立っていってみると西の空に真黒い煙が立ちのぼっている。キノコ雲である。八代の対岸は天草で、そのむこうは島原半島、橘湾をへだてて長崎である。直線距離にすると60キロあるかどうか。キノコ雲は白と黄色の煙を交えて、みるみる真夏の空に突きあたる。そのとき私には「ひょっとすると広島と同じ、新型爆弾かも」という想像が頭をよぎった。その翌日の新聞には、「長崎にも高性能の新型爆弾が投下された。被害は少なくないと思われるが目下調査中である」という記事が載っていた。
 長崎への新型爆弾投下よりも大きな活字でソ連、突如我が国に宣戦布告、未明からソ満国境を侵して、満州国内に侵入、北鮮にも爆撃開始、我が軍は勇敢に邀撃戦を展開中である」と、ヤルタ会談でのアメリカとの約束をタテにソ連が参戦してきたという。日本にとってはもっともショッキングなニュースをつたえていた。広島・長崎への人類史上類例のない原子爆弾攻撃と、和平交渉の仲介役ソ連の参戦という非常事態は私たち下級将校にとっても前途が真暗くなるような出来事であった。
 口に出していう者はいないが、本土決戦をまたずに日本は駄目になるのではないかという暗い予感である。どんなに政府や軍部が虚勢を張っても……いや張れば張るほど日本の敗色を実感するのである。そんな中で8月14日には、吹上浜に展開するわが水際陣地は朝からグラマンによるかつてない熾烈な攻撃を受けた。枕崎港に揚陸された巡洋艦・駆逐艦の艦砲や北九州から運ばれた迫撃砲が、陣地に据えつけられたばかりのときである。米軍の偵察機はわが家の庭を見るように、陣地の作業状況をつかんでいたのだろう。午後になったら空母から送られる艦載機が、われわれの主要な建物や陣地に爆弾を投下しはじめた。私はそのとき、神之川という本部から8キロ位はなれたところの迫撃砲陣地の高台にいたが、日置、吹上、伊作方面はド・カーン、ド・カーンというすさまじい爆弾投下に見舞われ、空を真暗くするような黒煙に覆われていた。私は高野中尉と、「まるで上陸直前という激しさですね」と話したものである。
 この何十波にも及ぶ空襲で、私たちの部隊本部は完全に破砕され、山田、日置の集落は燃えつづけた。部隊本部の建物は跡かたもなく、壕は爆弾のために落盤をおこし丘陵は全く変形していた。米軍の物量、攻撃力というのはわれわれの想像をはるかにこえるものであった。部隊長は、「ひどくやられたな」といいながら夜を徹して埋没した人や機材の掘りおこしを指揮していた。

 カンナの花赤く

 14日夜から15日にかけて米軍の大空襲の後片づけ、処理に追われた。わが部隊本部でも落盤による死者3名、爆撃による重軽傷者10名余で、隷下各中隊を併せると20余の死者が出た。負傷者は伊集院、大口、枕崎の陸軍病院につぎつぎにトラックで搬送した。こんな中で一大椿事が持ち上がった。部隊本部の建物の火災によって軍旗(連隊旗)が焼失したのである。軍国主義の時代、軍を統帥するのは天皇であり、天皇の身代わりが軍旗であった。したがって軍旗は天皇を具現するシンボルであり、軍隊は命を賭けて軍旗を守らなければならなかった。部隊全部の整列や行進のさいは軍旗は若い連隊騎手に棒持され、部隊の先頭に在って威厳の象徴ともなった。どの連隊でも連隊旗手には、陸士卒の現役パリパリの少尉を以って任ずることになっており、旗手を経験することは軍隊の出世コースでもあった。
 私たち五一〇連隊の旗手は香月啓輔少尉で眉目秀麗、170センチの美丈夫で、うってつけの連隊旗手であった。私と香月少尉は同年であり、職務はちがうが同じ本部勤務ということもあって、お互いに肉親や家族のことなども語り合う仲であった。空爆の最中、私は離れたところにいて現場を見ていないので詳細は判らないが、そのとき軍旗はどうなっていたのか。香月少尉が軍旗を手放していたというのはどんなことか。急をきいて私が本部に駈けつけたときは、弾薬庫の爆発がドッカーン、ドッカーンとつづき、火災は集落全体を包んで近寄ることはできなかった。誰彼となく「香月少尉は」と尋ねてまわったが、香月少尉には逢えなかった。15日朝、火災がおさまったときに、香月少尉は行方不明であることがわかった。本部の要員は煤で顔を真黒くしながら香月少尉の安否を気遣い、へんなことにならなければいいがと思っていた。
 8月15日。この日は師団司令部の通達で「将校全員、11時までに日新国民学校の校庭に集合」することになっていた。私たちは後片づけの作業などそのままにして山を下りて集合場所に出かけた。校門にはめずらしく栴檀の巨木が枝をひろげ、まるく大きな陽かげをつくっていた。きのうの空爆が嘘のように空は晴れ上がり海はなぎ、敵機の機影が全く見えない静かな日であった。軍服の内側から油汗がねっとりと噴き出る暑い日だった。師団司令部の要員がかけまわって、各連隊の位置を指図していた。正面の大きなテントの中には岩切師団長をはじめ幕僚たちがならび、ラジオのスピーカーが高く掲げられていた。号令台にかけあがり参謀長らしき人が、「これから重大放送が行われる。謹んで玉音を承るように」とどなるように言った。正午、初めて聴く天皇のかん高い声が流れた。聴き耳をたてたが、雑音に妨げられてその内容はほとんどわからなかった。何か重大なことを告げられたという雰囲気ではあった。
 放送のあと師団長が台上に立ち、「唯今の天皇のお言葉は、これ以上戦争を続けることはできないので戦戈をおさめる。つまり戦争をやめるという主旨であった。われらは本土決戦によって連合国軍を必滅する所存で準備をすすめてきたが、陛下のこのようなご決断をきくに至り断腸の思いである。日本は神国で不滅である。天皇の聖旨を噛みしめて、最後の奉公をしてほしい……」といって手拭いを顔に押しあてて号泣した。
 師団長の訓辞をききながら、「この戦争は終わったのだ、生きて敗戦を迎えたのだ」とぼんやりと思った。虚脱感のなかで校庭を眺めたら、真赤なカンナの花が鮮やかだった。
 その日の午後3時、吹上浜の窪地で香月少尉の遺体が発見された。彼はピストルで頭を撃ち青白い顔であおむけに倒れていた。薄く唇を開き苦悩の色はなかった。「一死を以って軍旗を失なった責任をとる」と書かれた遺書があった。よく見ると彼の足許にも血のように赤いカンナの花が咲きみだれていた。

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