第6回/1995年9月号掲載
丸木政臣(日生連委員長※/和光学園園長) ※現在は顧問

わが戦後


 青春無残なり

 8月15日の夜。私たち吹上浜の砂浜の一角で香月少尉の遺体を荼毘に付した。香月少尉の当番兵だった東兵長や指物大工出身の清水上等兵が、手早く棺を作って遺体をおさめた。川瀬小隊の兵士たちが丸太を組みあげそれに棺を乗せた。陽が昏れて甑(こしき)島が水平線に黒々と見え、青白い夜光虫が風に吹きよせられるようにまたたいていた。橋口部隊長、副島中尉、高野中尉、川瀬少尉があつまったところで、お寺の住職の安田軍曹が読経をはじめた。東兵長のすすりなく声が私たちの胸をゆさぶった。橋口部隊長が短く弔辞をかたった。それは香月少尉が、手帳に書きとめポケットにしまっていた遺書を中身としていた。
「香月、お前は、“軍旗を失ひし責任、一身にかへて償ひます。父上、母上、先きだつ不幸をお許しください”と書いていた。大東亜戦争は今日終わることになったのだ。それを知らずお前は急いで逝ってしまった。美しい最後だが無念というほかはない。お前の書きのこしたものに“路の端に月見草のあり、嘆くらく、美しき日のなぞやみぢかく”という短歌があったが、お前の青春も美しく短かった。どうか極楽浄土の世界からわれわれを見守ってほしい」
 部隊長のかきくどくような弔辞を聞きながら、いつしか私も顔じゅうを涙でくしゃくしゃにしていた。
 東兵長が石油をかけた。副島中尉がたいまつで火を点じた。轟音とともに青い焔がたちまち丸太も棺も包みこみ、焔は高く夜空にハジけた。空を仰ぐと火の粉が舞い、白い煙は海に流れた。それをとりまく多くの連中が涙を流していた。
 軍旗を消失した責任を命を賭けてとるというのが、香月少尉の大義であった。このことは私たち当時の若者に共通したことである。香月少尉は稀にみる文人であったから「路の端に月見草のあり、嘆くらく、美しき日のなぞやみぢかく」という短歌を残したが、そのホンネは「わが青春は短かく、無残である」ということだったにちがいない。現代の歴史観からすると、軍旗と一命をひきかえにする大義など愚かと思われるだろうが、あの戦争の下では若者たちは青春時代の時間を多く残して滅びることを、いまの若者からは想像できないほど悩み苦しんでいたのである。
 知覧の特攻基地の若者たち。彼らは「聖戦」を信じ、自分たちの死が祖国のために意味があることを信じて、自分で「そうしなければならないのだ」といくたびとなく言いきかせながら飛行機に搭乗した。戦闘指揮所前で命令を受け、愛機のもとに走っていくときのあの顔。青白い顔の多くが泣いていた。彼らはみんな自らの青春の残りを祖国に捧げたのだ。

 朝まだき知覧で別れし十八歳 握手せし手もふるへていしが

 知覧で別れた青年たちへの哀惜、沖縄に赴いた戦友松田、知念、仲村たちへの追慕。香月少尉を焼いた砂浜でひしと感じたものである。戦争が終わったとわかれば、(香月があと1日どこかにひそんで生きていたら)彼は死を以て償うという挙に出ることはなかったにちがいない。それが彼への哀惜の情なのである。誰もが早かれ遅かれ国のために死ぬのだという帰結があるので、戦友との別れ、知覧での決別も、行くものも、残るものも、割合に平静でいられた。誰もが「一億玉砕」を頭に描いていたので、生きて日本の敗戦の日がやってくるとは信じていなかった。しかし、8月15日をもって戦争は終わり、国民は死の呪縛から解きはなたれる。こんな日がくるのなら、なぜあと半年、いや一年、はやく戦争をやめなかったのか。
 私は夜半まで香月少尉の荼毘を見守りながら、多くの失われた青春の虚しさを思い、敗戦の聖断が遅きに失したことを嘆じた。

 望郷の思ひに胸熱く

 軍隊では教育隊の時代に両隣りに居たものを戦友と呼ぶ。私が陸軍予備士官学校から都城第七一部隊を通じて戦友と呼んだのは、松田和友と仲村正儀であった。知念清一をふくめて、松田、仲村らと1944年12月、西鹿児島で別れ、彼らはその数日の裡に沖縄派遣軍第二四師団の歩兵第二二連隊に追尾して沖縄に渡ったはずである。私は翌年の1月、鹿児島に帰着して沖縄派遣を準備したが、どんな事情があったのか派遣部隊第八四師団が派遣中止になり、その師団の輸送船団に便乗する予定の私たちは命びろいをすることになった。それから橋口部隊に転属になった私は、知覧の陸軍特攻基地の警備隊勤務を経験するが、その間じゅうずっと特攻機の行先沖縄の戦況に全神経をとがらせ、戦友たちの安否を気遣ってきた。しかし戦況は全くわが軍に不利で、5月末には首里を放棄し、南部に追いつめられた戦闘も6月末には玉砕同様の結末をとげる。知覧の通信室から固唾をのんで沖縄の傾勢をうかがう私の想念の中には、いつも戦友たちの苦吟が聞こえていた。沖縄戦全体の戦況では、中部に上陸した米軍の大部隊を正面から引き受けたのは六二師団(石部隊)で、かんじんの二四師団(山部隊)は中部から南部糸満辺りに展開していた。だから六二師団が満身創痍になっているとき、後詰めの二四師団は無傷であった。ところが第三二軍司令部は、5月上旬いらい二四師団を中部の戦闘によび寄せ、そのために二四師団は首里の前面米軍と激戦を展開することになる。この状況を戦闘詳報でみながら、戦友たちの安否を心配しているうちに首里が陥落し、あとは“鉄火地獄”の大混戦になり、偵察機によれば「見る限り珊瑚岩の石切り場、火砲散乱し死屍累々たり」という惨憺たる状況となった。
 8月末に警察官、鉄道員の復員の協議のために福岡の西部軍司令部に出張した。そのついでに松田の家を訪ねることにした。仲村の家は広島市で、照会の手紙にも応答がなかった。松田の家から父親の返信があり「和友は未帰還なるも戦友の訪問は歓迎する」旨のお父さんの葉書をいただいた。松田の家というのは、佐賀県大川野というところで筑肥線の伊万里の近くの山間部である。昔から唐津焼の集落が小さな町を形成している。私は朝福岡を出て満員列車にゆられて鳥栖までやってきて、ここから長崎本線、唐津線、筑肥線と乗りついで4時間ほどかかって大川野にやってきた。私も阿蘇山地に生まれたので、山にはおどろかないが、大川野は山また山、重畳たるところである。よく松田は「俺の家の軒端近くに明神岳が聳えていてな」と山自慢をしていたが、なるほど明神岳とおぼしき嶮しい山容が平地に迫っている。
 松田の家は村の入口に近いところにあり、コスモスの咲く門口に「普門窯」とあった。陶業家である。庭には所狭しと薪や陶器が積まれ、登り窯を中心に作業場があった。父親は50すぎであろうが、母親は若々しいひとだった。初対面の挨拶のあと、招じられて囲炉裏のある座敷に通されたが、そこにはおびただしい画のカンバスや額縁が並んでいた。母親は「この画は和友のものですよ、あの子は画が本当にすきだったようで」といった。松田は長崎高商から学徒出陣で従軍したのだから、商業の専攻である。母親が「兄妹二人であの子が上で、下の娘は国民学校4年生です」といったが、母親の手伝いをしているおカッパの子が妹であろう。
 父親が汗を拭きながら「遠かところ、よう来て下さった、さ、くつろいでくだっせ」といって話に加わった。「あん子がくれた最後の便りがこれです」といって、神棚に供えてあるハガキを見せてくれた。差出し場所は「沖縄県島尻郡玉城村百名」となっていた。ここが彼の属する部隊の駐屯地だったのだろう。日付は「昭和20年3月3日」となっている。
「お元気のことと拝察いたします。僕も元気でがんばっています。佐賀の海とちがって、沖縄の海は紺碧で、海と空とが広さをきそい合っています。鶯が啼き、桜の花も満開です。大川野の山の緑を瞼に描くこともあります。どうか体を大切にして下さい。またお便りします。和友」
 おそらくこの葉書も人の目をさけてこっそり出したものであろう。3月、「桃の節句」の日、沖縄戦の幕が切っておとされる直前の“嵐の前の静けさ”のときだったのだろう。
「沖縄は、日本軍がほとんど全滅と聞いています。村の人は誰もが諦めちゃいかん、必ず生きて帰るという望みをもたねばというてくれるんですが──」
 お母さんの言葉は途中でつまって嗚咽にかわった。そんな両親を前にして私には慰める言葉もなかった。戦友である私は、ご家族の前に元気で座っているのだから。
 息のつまるような中から、私はのがれるようにして暗い夜汽車の客となった。

 国破レテ山河アリ

 戦争は終わったが部隊は現地に残って、構築した陣地の復旧、糧秣・弾薬の処理などの仕事に追われていた。8月終わりまでに復員したのは、朝鮮出身兵と警官・鉄道員などで大きなリュックを背負って家郷に帰っていった。私たちが戦時下に受けた教育には、私たち日本国民が生きて「終戦」の日を迎えるということはあり得ないことであった。本土決戦で米軍を駆逐するか、全員が「玉砕」するかいずれかであった。8月15日、「玉音放送」によって突如敗戦が告げられて以来、私の中には敗戦の悲しみと、「生」への喜びが複雑に交錯していた。私は部隊の副官であったので、復員の業務に追われたが、それが一段落すると一種の虚脱状態に陥った。「これからどう生きるか」など考えられないまま物憂く日を送った。部隊長は、私の身の振り方も心配して「君は教員になれるんだ、早く帰って新しい道を選べよ」といってくれた。
 私も漠然と教員への道を考えてきたが、敗戦から日が経つにつれて「とても俺にはできそうにないな」と決心がにぶってきた。9月の半ばのことだったか。沖縄出身の幸喜兵長と米須一等兵がたずねてきた。8月初め串木野から機動船を盗んで、沖縄の糸満に行こうとしたウチナンチューである。彼らの話というのはこんなことである。
 沖縄は焼野ヶ原で、米軍に占領されているので音信も不通だし、帰るところもない。困りぬいて二人で相談した結果、ひとまず米須の母親の生家、天草の牛深を訪れようということになった。母は、ここから糸満の漁師にとついできたのだ。子供の頃にお葬式で牛深には連れていってもらったことがある。自分たちも漁師だから、牛深で仕事を見つけて、沖縄に帰る機会を待ちたい。
「そいでわたしらは道不案ですから、副官殿が帰られるときに一緒に連れていってもらえんかと思いまして……」
 時折顔を合わせる沖縄の二人が気になっていたところである。私は即座に「よっしゃ、3人のほうがにぎやかだ」と返事をした。10月10日、私の誕生日、私は残り少なになった隊の幹部に挨拶をして復員の途についた。3人とも毛布を背負い食糧を持って、歩いて熊本まで行くことにした。100キロはこえるだろう。鹿児島本線に沿うように、鹿児島、川内、出水、水俣、八代と歩いたが、どこも空襲で被災し、駅付近に群がる人々は飢えていた。私たちは川内や出水で国民学校に泊ったが、幸喜と米須はなけなしの米を盗られてしまった。ウチナンチューは人を疑うことを知らないお人好しだった。
 彼らのむかう牛深は水俣から近いと聞いてきたが、船が出ていないということで宇土という港にまわることになった。熊本が近くなったところで懐かしい阿蘇山地が見えはじめた。「国破レテ山河アリ」。家郷の山の紅葉が夕映に美しく浮かんで見えた。

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