第7回/1995年10月号掲載
丸木政臣(日生連委員長※/和光学園園長) ※現在は顧問

沖縄は遠く


 わがふるさと

 1945年10月13日。私は熊本に復員した。日用品や私物を詰めたリュックと毛布2枚が全財産である。私と一緒に熊本までやってきた沖縄出身の幸喜兵長と米須一等兵を熊本駅から宇土線に乗せて、「この終点で連絡船に乗るんだぞ、困ったことがあったら俺のとこにたずねてくるんだ」と送り出した。幸喜は齢相応におちついていたが、まだ18才という米須は心細そうにしていた。彼等の行先は米須の母の実家天草郡牛深港である。そこがどんな家かも見当はつかなかった。
 私は熊本の北部、阿蘇山地の宮地というところに生まれ、そこで父と母がわずかな田畑を耕したり、薪炭や雑穀類をあきなったりしている。私は5人兄弟の長男で、私は学徒兵、次男は陸士、三男は海兵に従軍し、下の弟たちは中学生と小学生であった。私が豊肥線にゆられて宮地駅に着いたとき、根子岳、高岳、中岳の連山は暮色につつまれ、噴煙が白く天にのぼり夕陽に映えていた。この光景を見たとき、私ははじめて戦争が終わり、故郷に復員してきたのだと実感したのである。
 「国破れて山河あり」とはいうものの、これからどのように生きるのか不安だらけである。それは私自身のことだけでなく、日本の前途も黒い霧につつまれて前途は見えなかった。熊本の街にはヘルメット姿の米兵が手榴弾を腰にうろうろしており、宮地辺りにも進駐軍のジープがやってきて、戦争中の軍需物資の摘発をしたりしていた。日とともに米軍の軍事占領の実体が国民の目にはっきりとしてきた。ちょっと前までは「神州不滅、鬼畜米英」であったのに、耳なれない「上下平等、民主主義、自由同権」などの新しい言葉が飛びかった。そして新聞にはマッカーサー司令部の社会改革の指示が掲載され、人々の目をひいた。治安維持法によって拘禁されていた三木清が獄中で栄養失調で死んだことが報じられたのもこの頃であった。新聞では連日、治安維持法の廃止が報じられた。NHKラジオで流れた「自由戦士出獄歓迎大会」の熱狂ぶりが鮮やかに思い出される。それは10月末の農作業昼休みの縁側でのことだった。そのとき徳田球一が「われわれはこの帝国主義戦争に命がけで反対して18年間獄につながれた。いまこうして平和がよみがえりわれわれは解放されたが、多くの同志は非業の死をとげたのだ……」と絶叫するのを聞いたとき、私自身が戦争推進者であるような胸苦しさを感じたものである。そのとき母が「こういう人たちが政治家じゃったら戦争はなかったのにのう」といったものである。私は三木清のことといい、共産党への弾圧のことといい、戦争中の出来事にたいして自らの不明を恥じたものである。
 私の師範学校時代の同級生の中にも、数人の戦死者はあった模様であるが、復員してきた者は人手不足のなかでつぎつぎに学校に就職していった。私にも師範時代の恩師三浦強助先生が勤務される付属国民学校などから、就職の勧誘があった。当時の心境でいえば、予備士官学校、西部七一部隊、沖縄派遣二四師団、阿蘇三二四〇三部隊、知覧特攻基地、吹上浜、敗戦とわずか2年余のあまりにも数奇な体験にふりまわされ、それが自分の中で整理がつかず教職につくなどという決心はつかなかった。
 私の村はほとんど畑地であった。畑作というのは四つん這い労働で体力が頼りである。私は母の農作業の手伝いで日を送った。小豆や大豆、玉蜀黍、大根、陸稲作りなど、馴れない私には骨身にこたえるばかりだった。

  慚愧の思い胸に抱きて母と二人 陸稲を植える日々にてありき(日記より)


 焼跡・闇市

 雨の日は農業は休みになるので、時折、米穀類を背負って熊本の町に出て、親類、かつての下宿、恩師の家を尋ねた。熊本の町もかつての軍都であり、飛行機工場の町なので、数次の焼夷弾攻撃を受け、赤茶けたトタン屋根のバラックがならんでいた。駅の周りや繁華街には、焼跡がひろがり、闇市が軒をならべていた。敗戦という未曾有の体験で国全体が意気消沈しているというのに、焼跡にも、闇市にも自由の空気が横溢し、町は活気に満ちていた。電柱や塀には「食糧危機突破県民集会」「婦人参政権演説会」「共産党大会」「隠匿物資摘発県民大会」「戦犯追及」などのビラがずらりと貼られていた。天皇制国家体制で抑えこまれていたのが解き放されたので、これまで発言できなかった婦人、労働者、市民の力が堰を切ったように噴出してきた感じである。
 このような社会の大激変をどう受けとめたらいいのか、私には手も足も出なかった。私は小学校入学が満州事変の年で、いらい師範学校に至るまで全部を日中戦争・太平洋戦争の下ですごし、「学徒出陣」とともに兵役に従ったわけで、いってみれば軍国主義の純粋培養みたいなものであった。自分が従軍した戦争を「聖戦」と信じたために、自分の青春の半ばを戦争に捧げ、なかには沖縄で屍を山野に曝したものもいるというのに、敗戦とともにあの戦争は侵略戦争で、戦死したのは“犬死”だといわれることは釈然としなかった。
 私の頭の中には、「萬世一系の皇統いや尊く肇国の悠遠いよいよ確固たり」という書き出しではじまる西田直二郎の「國史通記」が銘記されていて、公園で手にした「赤旗」の「人民主権の新しい憲法草案」や「天皇を戦犯として追訴せよ」などのことばや思想性は私の中には入りこみようがなかった。私は熊本の町に出て、新しい時代の息吹を実感しながらも、それについていけず懊悩する日々であった。自分の歴史観については、それは修正する必要があると感じつつも、そこまで辿りつくには時間の経過、さまざまな体験をかさねる必要があった。
 12月の半ば、復員した友人をたずねたついでに、学生時代によく通った熊本書院という古本屋さんを訪れた。ご主人の本間さんは私のことを覚えていてくれて、こりゃ珍しい、どうぞどうぞ、と店の奥のほうに招じ入れてくれた。テーブルの上には「人民評論」や「民主評論」「新生」などの雑誌が積みかさねてあり、かたわらの新聞には「戦争犯罪者リスト」という大きな文字が躍っていた。
 私は率直に戦後社会の激動と、それについていけない自らの悩みをご主人に打ち明けた。本間さんは、笑みをたたえながら「それは当然ですよ、それが当り前です、国民、とくに青年が天皇や国を信じ、それに命を捨てるように教育をしてきたんだから」といい、「時間をかけてそのようにしてきたんだから、こんどは時間をかけてあなたの歴史観をもっと巾ひろくする必要があるんですよ」と語ってくれた。そして彼は「いままでは天皇・国家の立場に立つ歴史をやってきたんですから、こんどは働く大衆、社会を支える民衆の立場に立つ歴史を学ぶ必要があるんですね」とこともなげにいい、彼のことばの理解に迷っている私の前に書棚から取りだした数冊の本を積みあげた。「日本資本主義発達史講座」が積まれた横に「自然真営道解説」「マックスウエバー・社会経済史」「明治維新」などがおかれた。本間さんは、しきりに講座派の研究者のことを語り、山田盛太郎、平野義太郎、永田広志、三枝博音などの名前をつぎつぎにあげ、「これからはこんな科学的な研究者の時代がきますよ」といった。「科学的だからこそ戦争を犯罪だと判断し、反戦平和を唱えたのです」ともいった。私はこれを契機に、雨の日には焼跡の熊本に出、お米と引きかえに熊本書院から本を仕入れることになった。

 ウチナンチュ 幸喜兵長

 敗戦でわが家に帰ってからも、沖縄のことが私の意識から消えることはなかった。しかし沖縄のことが新聞に報じられることもなかったし、敗戦後の沖縄がどうなったかも皆目わからなかった。私たちは8月15日に敗戦という歴史の区切りを体験したが、本土の前哨基地として激戦にまきこまれた沖縄は、日本の敗戦に先きだって6月末には戦争終結となった。といっても、沖縄各地で住民が死んだり米軍の捕虜になったりした月日はちがうわけで、読谷辺りだと4月、南部の糸満付近では6月なので、生き残った人々の「八・一五」はそれぞれちがうことになった。そして沖縄はその日から米軍に軍事占領されて、それが戦後もひきつづいているのである。日本の新聞に沖縄のことがほとんど報道されなかったのはなぜか。戦後の大混乱で、日本の政府・国民にそれだけの余裕がなかったということがあるかもしれない。うがった見方をすると、日本人(ヤマト)には、あれだけの犠牲を強いたのに、沖縄を日本の一部と自覚し自らの骨肉の情をもって、沖縄の苦難をわが事として主体的にうけとめるということがなかったのではないだろうか。太平洋戦争では沖縄は本土の前哨基地として「勝てなくても長期に守り抜き」アメリカの本土上陸を引き延ばす任務を押しつけられた。玉砕することも降伏することも許されない鉄火地獄だったのである。私はこの経過、この事実を3月いらい6月末まで、ずっと知覧基地の通信室で見聞してきた。沖縄では軍民25万人が死んだといわれてきた。将兵は戦うためにあるので仕方がないとしても、自らの生活の場に戦争がやってきて、無理やりに日本軍の戦力に加担させられて死んでいったウチナンチュの慟哭をどう受けとめればよいのか。戦後の日本(内地)では、沖縄は全くの異郷であって自分たち同胞の国ではなかったのである。その証拠に新聞では全くといってよいほど沖縄のことは報道されなかった。たしかその年の終わりの頃「沖縄住民が収容所から指定地に移動を命じられた」というベタ記事が出た位であろう。その頃の沖縄は米軍の占領地であり「アメリカ」であったわけで、日本の新聞報道にもきびしい規制があったことはたしかである。しかしそれだけでなく犠牲は強いたが一体感は持たないというヤマトの、ウチナ差別が根底にあったことも否めない。
 46年の春(まだ山々には山頂に雪があったから3月半ばか)、ウチナンチュ幸喜富男がたずねてきた。天草に行ってから一度葉書をよこしたが、その後は音沙汰がなかったのにひょっこりあらわれたのでびっくりした。その晩はわが家の囲炉裏端でわが家族と彼とで飲んで食べて話をする。
「それで牛深の米須の親類はどうかね、一緒に仕事をしているのかね」
 私が気になっていることを尋ねると、
「2か月ばかり居ましたけどね、私は11月から八幡に移りました。統制で油がないんで漁船が出せんのです。居候するのも悪いと思いまして、八幡製鉄に働きに行く人がいたんで一緒に移らして貰いました。米須はまだ牛深におります」
とこたえた。
 幸喜の話の大要はこんなことだった。
 彼は糸満町にある水産学校を出ているので機関士の資格を持っている。福岡県八幡市にある製鉄会社で船員を募集していると聞いて応募したというのである。あるいは幸喜は情報を得ていたのかもしれないが、八幡製鉄は沖縄の戦場に滞積している鉄のスクラップを米軍から買いとり、それを八幡製鉄の溶鉱炉で再製する計画を持っていた。沖縄出身の幸喜は土地カンもあり、会社からしてもうってつけだったかもしれない。
「12月にウチナに行ってきました。山も町も何もかもいみなのうなっとりました……」
 幸喜は手の甲で涙を押えて絶句していた。

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