第8回/1995年11月号掲載
丸木政臣(日生連委員長※/和光学園園長) ※現在は顧問

かいま見る沖縄


 カンポーの食い残し

 幸喜豊男は、「忙しい用事を抱えとりますんですぐおいとまします」といいながらも三晩ほど泊まっていった。来客の好きな私の母は、「お家は沖縄ですか、うちの兄んさが兵隊でお世話になりましたそうで」などといいながら遠来のお客をせい一杯もてなしてくれた。幸喜もはじめのうちはかしこまっていたが、だんだん家庭的なふんいきにほだされて私の家族ともうちとけて、沖縄にはない囲炉裏を囲んで飲んだり食ったりした。
「それでさ、八幡製鉄の船に乗っとるんじゃろ、沖縄には出かけたの」
「沖縄はアメリカの軍事占領下にありますので、砲爆撃のスクラップを買入れ、それを輸送するということも、なかなかむずかしいことがあるんですね。ようやく年が明けてから渡航が許可になりましてね、1月に1回、2月に2回行ってきました」
「そいじゃ沖縄に上陸したわけじゃな、どんな様子だった、あんたの故郷はどないじゃった?」
 私は全く情報の得られない沖縄のことを、少しでも知りたかった。幸喜が八幡製鉄の輸送船に乗りくんで沖縄に行ってきたというんだから、もっともリアルな情報を知りたくて幸喜に先の話をせきたてた。しかし幸喜は沖縄のことになると気持ちが沈んでくるのか、口が重くなった。
「とてもとても想像なんかできんようにひどい状態です。船上で2泊して沖縄の海に入るのですが、冬も緑したたる島のはずが全島砲爆撃で打ち砕かれて、白々とした石灰岩が陽にむき出しなんです。それをみたとき僕はうっといったまま声も出ませんでした。船は米軍のボートに先導されて泊港の指定の桟橋に着きました。周りの海は沈船の赤茶けた残骸だらけで、港の広場には大砲の薬莢や拾いあつめられた砲爆弾の破片、タンクや車の残骸がまるで山のようなのです。その小山が20も30もつらなっているんです。グリーンの迷彩服を着た米兵にまじって、沖縄の労働者が運搬などの作業をやっていました」
 幸喜は、全然別の島に行った感じだった、といったが、米軍は沖縄上陸前の7日間に艦砲を4万発発射したといわれるから、おそらく1坪当たり1発位のわりで着弾したのではないだろうか。
「それで君は糸満の自分の村には行ってみたの。ご家族は無事だったのかい」
「監視がきびしくてなかなかあちこちのようすをさぐるようなことはできないんですね。僕は糸満の南のはずれ米須という海岸の出身ですが、そっちのほうは日本軍が最後に逃げこんで、米軍と死闘をくりかえしたところだそうで、いちだんと被害が大きかったようです。3回目に行ったとき、港でクレーン車を動かしてスクラップを移している知人に逢ったんです。以前に青年団時代の下級にいたやつで古堅哲夫というんです。僕の顔を見たら、古堅は“わあ豊男じゃ、なんね、生きとった”といって僕の腕を握って喜んでくれました。古堅は米須にちかい真栄里の出身です。“ねえ豊男さん、わしは艦砲の食い残しよ、洞窟(ガマ)の奥にかくれとるうちに艦砲があたらんじゃったよ”といいました。ということは、住民のほとんどが米軍の砲爆撃の餌食になったということなんです」
 幸喜とその知人の話から推測すると、島尻郡の国吉、真栄里、真壁、米須、伊原、摩文仁などという村落は、全滅か、生きている人がいても半分以下で、古堅の一家は本人を除いて全滅、幸喜の家も生存者はいないだろうとのこと。詳しいことはわからないが絶望的ということのようだ。

 沖縄・島尻の戦場

 2月のある日、幸喜は古堅哲夫にたのみこんで、古堅のトラックの助手として南部の旧戦場からのスクラップ運搬に連れて行ってもらうことにした。この作業を一括して請け負っている国場組の監督に黙認してもらったのである。幸喜は、自分の村に帰るのがこんなに面倒だとは思っていなかったし、この戦争によって沖縄はなくなったと思ったという。
 早朝に那覇を出て豊見城、糸満を経て、伊原、米須、摩文仁に至る県道だが、戦争によって破壊されたところをいたるところで補修していたが、穴ぼこだらけで、トラックが大揺れに揺れるガタガタ道である。鬱蒼たるガジュマルの森は無残に破壊され、村落のフクギも根こそぎふっとんでいた。通る沿道の集落はほとんど焼きつくされ、残った家も廃墟になって屋根も壁も大きな穴だらけで、人が住めるという状況ではなかった。摩文仁の広場が巨大なスクラップ集積場になっていた。厖大な大砲の薬莢の山に、大砲、機関銃、小銃、火炎放射器、タンクなどの残骸。それをクレーン車でトラックに積むわけだが、髪の毛の付着した鉄帽や黒ずんだ肉片をつけた山砲もあり、残骸の間に白い骨片がまじっている。息を呑むような生々しい戦争の現場である。摩文仁の作業場に仕事で来ていたひとの中に天久カネさんという初老の婦人がいた。この天久さんは、米須村のひとで幸喜の家のこともよく知っていた。幸喜が恰好の一変したカネさんにびっくりして「サキ屋のカネおばさんね、イニ屋の幸喜です。豊男です。余りの変わりようにわかりませんでしたよ、無事でしたか」と手をとると、天久さんは被った手拭いをとって「わは誰ぞな、わにはわからんよ」と何度かくりかえし、古堅が横から「米須部落の角の、イニ屋の幸喜豊男さんですよ、兵隊に行った豊男さんじゃ」というと、カネおばさんにはようやく通じたようで「チャービラサイ、戦さで眼も耳もわるうなってよ、幸喜さんの兄いとはわからんじゃったよ、チャービラサイ」とくりかえした。
 昼食の時間、木陰でおばさんから二人で聞いた話の大要はこんなことだった。
 米軍が上陸した後も、この島尻一帯は割合にのんびりしていた。5月の半ば頃から首里や那覇辺りの避難民がやってくるようになり、やがて住民とともに敗残兵もやってきて大混乱状態になった。隠れるガマのとりあい、食糧の奪い合いなど騒然としてきた。そのうちに山部隊(二四師団)の本部、主力が移動してきて、真栄平、宇江城辺りの丘陵に戦闘のための陣地をつくりはじめた。6月の10日頃、米軍の大部隊が戦車を先頭に八重瀬岳、与座岳、国吉の丘陵地の日本軍陣地を攻撃しはじめた。2、3日間は、砲撃や機関銃の音が耳をつんざくばかりにとどろき、天も真黒くなるように煙がたちこめた。おそらく日本軍の主力山部隊は、最後の力をふりしぼって米軍の進出を阻もうとしたのであろう。住民や避難民は逃げ場を失なって、丘陵に点在するガマ(自然洞窟)にこもった。米須部落の人たちは、ヤマグスクガマ、マヤーガマなどにかくれた。しかし米軍が丘陵の陣地を突破してからは、敗残兵が住民を追い出してガマは兵隊に占領される形になった。糸州、伊原、米須、摩文仁は半島の端だから、敗残兵も避難民もみんなここに逃げこんできたので、米軍の戦車砲、機関銃の攻撃で一方的な殺戮になった。まさに「すべての地獄を狭い一ヶ所にまとめたような無残な戦場」になってしまった。
 6月19日、20日が一番ひどかった。米軍の司令官バックナー中将が、真栄平で日本兵に射殺されたので、その報復で米軍による無差別殺人がおこなわれ、この2日間で南部の村の多くが壊滅した。古堅の家は哲夫ひとりが生き残り、幸喜の家は父は防衛隊で戦死、母と3才の妹は爆死、8才と5才の弟は嘉真良の収容所だろうとのことであった。

 魂魄の塔

 天久カネさんは、
「わしらはマヤーガマに隠れちょったんじゃ、家族8人でな、荒崎の海のほうからアメリカーが、毎日、出てこい、出てこい、食べ物もあげる、出てこーいちゅうてな、そいで19日の晩にわいらみなでアメリカーのボートに行って捕まったんじゃ、イニ屋の幸喜しゃんとこはな、お父は防衛隊で前田あたりでやられたちゅう噂じゃった、お母あや弟たちはツカナーガマにはいっとったんじゃが、お母あが下の子をおんぶして家に道具をとりにいんだとこに砲弾がとんできて、家と一緒にこっぱみじんになったそうなが。16日か、17日のことじゃ。下の子たち二人はほかの村の衆と嘉真良の収容所に入っとるそうなよ。ほんとうにかわいそうにな。わいらの米須村は7割ちかくが殺されたんじゃ、わいのように生きとるのが不思議なようじゃ」
と眼をしばたかせて何度か手拭いで涙をおさえた。
 幸喜は、沖縄に行って「覚悟はしとりました」といったが、それでも一家全滅にちかい状態になったことで「力が抜けました」と寂しそうだった。そして来月沖縄に行くときは、収容所に弟や生きている村の衆をたずねてみるつもりだといっていた。
 幸喜は5日間沖縄に滞在するので、古堅のトラックで翌日も米須に行ってみた。せめて部落の中の自分の家も見てみたいと思ったのである。県道から海辺に入る村落は屋敷木も道端の木もみなたぎ倒され、多くの家が破壊され、残っている家も穴だらけで見るかげもなかった。道の角の石垣の中にあった幸喜の家も焼失して、石組みとフク木がわずかに名残りをとどめていた。
「こりゃなんじゃ、人の住めない廃村じゃないか。ひどいもんじゃ……」
 幸喜と古堅は呆然としてその場に立ちつくした。それから藷畑、黍畑のひろがる米須原に歩いてみた。狭い村道に「遺骨収集中、無断立入り禁止 琉球政府」の白い立札が立っていた。みると10人位の人が土を掘りかえしたり、モッコを担いだり、手押車を押したりして仕事をしている。幸喜たちは、道に立っている監督役の人に「この村の者です。ごくろうさん……」といって近づいた。その人は「見る通り遺骨が散乱しているので、あそこの無縁塔に集める作業をしているんです」といった。みるとガジュマルの大木の折れた根っ子に直径10米ほどの円形の石累が造られている。かたわらに「魂魄の塔」という真新しい標注も立っている。
「見る通り一つの石のかげには2、3体、小さな崖下には5、6体というふうに、この原っぱだけでも何千体もの遺骨が散らばっているんです。この無縁の仏を祀りたいということで金城さんという人が、この魂魄の塔を思いつかれたんです」
 幸喜は「うちの母たちもここに入るんですね」といいながら合掌したという。

『生活教育』ホーム ライブラリーのトップ 次の回へ