第9回/1995年12月号掲載
丸木政臣(日生連委員長※/和光学園園長) ※現在は顧問

アメリカー世(ゆう)


 先生におなり

 敗戦後、軍隊から家郷に引き揚げてきた私は九州阿蘇の山村で、母とふたり田畑を耕作する仕事に精出した。それは1945年から翌年の46年にかけてで、この時期は日本社会が一変するような大混乱期で、私自身の精神の彷徨の時期でもあった。復員すると直ぐから教員になるような誘いが何度かあったが、国家主義から民主主義へ思想的な転換のときで、決心がつかないまま固辞しつづけてきた。戦時経済の破綻による物不足、物価高や食糧飢饉、人心の荒廃などが重なって社会の混乱はおさまる気配はなかったが、私自身は熊本書院の本間さんや、恩師の平田邦治先生の示唆などもあって、近代史の勉強が少しばかり進み、深い霧の中にわずかに白い日輪を仰ぐような気持ちにもなってきた。
 7月か8月のある日、その前日、小学校のときの友達今村孝一君の遺骨が無言の帰還をし、お葬式がおこなわれた。少年飛行兵を志願して戦闘機乗りになったのだが、北九州に飛来したB29の邀撃戦で戦死したのだという。孝一君のお母さんは、私と母の前で遺骨を横に打ち振ってコトコトさせながら「まあちゃん、こげんなったらだめばい。抱いてやっても物もいわんものな」といって泣いた。私も母も竹馬の友「陸軍曹長今村孝一」のために涙を流した。
 私たちはその日、陸稲(おかぼ)の草取りをしていた。夏の真盛りでも阿蘇山地はそう暑くもなく、根子岳の上をゆく白雲は腰すえたまま動かなかった。畦(あぜ)に坐って昼飯をつかっていたら、母がぽそっとこういった。
「あんたこれからさきどげんするとな。あんたの友だち連中は、良男さん、武さん、為夫さん、恒則さん、孝一さん……、みな戦争で死んでしまわした。生き残ったあんたはこうして母しゃんと百姓ばしとってよかとな。生きて戻ったあんたは、戦死さした人のぶんまでがんばらにゃならんとよ。なあ、あんた先生におなり、そして子どもたちに戦争はどげんこつがあってもしちゃいかんって教えてはいよ。……」
 私の母は無学であった。だから学校に幻想を抱いていたし、わが子を先生にすることにも格別の思い入れがあった。私は母の熱心な話に耳を傾け、その日はとても素直に母の気持ちをわかろうとしていた。
 そのときから私は一転して現実感を持って教員への道を考えはじめた。私を熱心に誘ってくれた熊本師範学校付属国民学校に10月から勤めることにした。着るものもなかったころで、軍服で教室に行ったが、受持ちの高等科2年の生徒もそんな私に余り奇異なものは感じなかったようだ。熊本の街も焼野ヶ原で住む家もなかったので、先輩諸公たちの厚意で学校の宿直室に泊めてもらうことにした。この部屋で2年間、全く他出しない生活をすることになる。
 思えば私が教員になった戦後そうそうというのは、みんなが貧しく飢えていたが、精神的にはもっとも自由なときだったかもしれない。GHQによって矢つぎ早やに民主化の指令が出され、国家主義、軍国主義が否定された。修身、国史、地理などの授業が停止され、一方では戦争に協力した教員の追放が行われた。古い木が伐られるので、新しい若木がどんどん新しく育ち、その頃石坂洋次郎の「青い山脈」が映画化され自由と青春が謳歌されたが、まさにこの映画に象徴されるような若々しい時代であった。日本の教育といえば、天皇を頂点に「教育勅語」を主柱に「教授要目」と「国定教科書」で行なってきたが、戦後は国家主義の束縛から解き放され、教える中身を手作りしなければならなかったので大混乱であった。教員1年生の私はそんな環境の中で日夜仕事に没頭したのだった。

 ウチナンチュと一晩語る

 私の付属国民学校での生活は多忙をきわめた。学級担任をやって、授業をやって、教育実習生の面倒をみて、教員の研究会に出て、生徒指導をやって、その上に警備員の仕事、おまけに自炊、そのうえに校庭で畑作をするのだから休みも日曜日もない生活である。そんな中でもほとんど毎日のように沖縄のことを想った。幸喜豊男は八幡製鉄のスクラップ輸送船に乗って沖縄を訪れ、郷里の島尻郡米須辺りに出かけて、「ひどいもんです、緑の山は消え、まっ白い石みたいなはげ山で家は残骸だけ、アメリカーがガソリンかけて砲弾おとしたんだから、人間はみんな砕けて骨の屑になったそうです」と語ったことからすると、沖縄戦の地獄のもようが想像できる。その鉄血砕ける戦場にいたんだから、わが戦友知念、松田、仲村たちの安否、「山部隊」のようすも気がかりである。しかし沖縄戦の終了と同時にアメリカ軍の占領下におかれ、軍政が施かれている沖縄は、もはや日本の国土からは完全に切り離され、殆ど情報らしいものの交流されない「異国」になってしまった。新聞によると46年夏には本土への疎開者などの帰国は認められたようだが、旅行者などにとっては隔絶した土地で、米大使館のビザをとらないと渡航できないとのことだった。
 沖縄の青年で八幡製鉄ではたらいている幸喜豊男への年賀状の隅に、「教員になった、暇があったら付属国民学校の宿直室にいらっしゃい」と書いたら、彼からすぐ返事がきた。
「その後、3度ウチナに行きました。行くたびに島尻の村をまわっています。どこもほったらかしの白骨がゴロゴロしていて、余りの無残さに涙も出ません。嘉真良収容所でやせこけて骨と皮になっている弟二人に逢いました。11月には、米須喜一君も連れて行きました。つもる話もありますので、米須を誘って土曜、日曜一泊でお伺いします」
 幸喜君と米須君が「寒い、寒いですな」を連発しながら二人がやってきたのは47年の3月だった。幸喜君が阿蘇の私の家に泊っていってから1年ぶりのことである。米須君は志願兵だから幸喜君よりも二つ三つ若いのだが、2年ぶりでみたら屈強な若者になっていた。彼は天草の母親の実家に身を寄せたが、その後もずっと沖合漁業に精を出しているという。八幡に住む幸喜君と天草の米須君とは、熊本の駅でおち合って私のところにやってきたのだそうだ。その晩は私の部屋で米須君が土産に持ってきた鮮魚を二人が捌いて久しぶりに酒を酌みかわした。
「去年の11月、幸喜さんに連れられてウチナに行ってきましたョ、話には聞いていましたが、村ごとすっとんじまって、そりゃひどいもんでしたョ」
「それで米須君の家族は無事だったかね。お父さん、お母さんは……」
 私が聞くと横から幸喜君が喋った。
「米須君とこは、もともと糸満の浜に居ましたが、戦さのときは親戚と一緒で宇江城(うえぐすく)というとこに住んでいたらしいです。ここは雨宮部隊(山部隊)の司令部があったところで、おかげで南部でも一番ひどくやられたですョ。住民の半分以上が殺されたり、自決したりしました……。米須君の家は、お父さんは徴用で輸送船に乗っていて戦死、お母さんと妹は行方不明、爺さんと姉さんだけが九死に一生を得たというようなことです」
 私は「幸喜君同様、米須君とこも大変だったな、それで生き残った家族には出合ったのかね」と問いかけた。すると幸喜君が、「私は去年の春収容所に行きましたが、秋には米須君と一緒に前島収容所まで行ってきました」といい、米須君がぽそっと話しはじめた。
「知りあいの人にたずねて、ようやく爺さんと怪我した姉が入っているという前島収容所に行きました。汚ないテントがずらりとならんで、何百人もの人間がうようよ、米軍のMPやらCP(民警)が見張りをしていて行き来はできないようになっています。上半身裸の米兵がのし歩いていて、ウチナンチュは小さくなっているんです。爺さんも姉さんもわかりましたが、テントの中でユーレイのような顔をしていましたョ。二人とも私の腕をとって生きとったねといっておいおい泣くばかり。着ているものはボロボロ、手足は泥だらけ、眼ばかりギョロギョロさせてね。幸喜先輩がコッペパンを段ボールに一杯持ちこんだので、みんな餓鬼のようにむしゃぶりついて……姉さんの髪の毛にはべったりとシラミが固まっているんですね。……米兵がやってきてパン食っている人たちの頭にDDTをぶっかけるんですョ。顔じゅう白い粉がふいて、眼ばっかり光らして。ああ、戦さ世ーから、アメリカー世ーになったんだなと思いましたよ」
 二人の“嘆き節”は果しなかった。

 山(雨宮)部隊の最後

 私が軍隊時代に指導を受けていた児玉勇一中隊長が、復員連絡局に勤めていることがわかったので、“渡りに舟”とばかりに「沖縄派遣軍第二四師団(山部隊・雨宮巽中将)の消息を「わかるかぎり教えていただきたい」と依頼の手紙を出した。2か月位あとに返信があったが、次のようなことであった。
 第二四師団は、もともと沖縄の中部、嘉手納付近に展開していたが、南部島尻地区に展開していた第九師団が台湾に転出したので、昭和20年1月、そのあとに位置して警備に当たることになる。4月1日に米軍約18万人が北飛行場正面より上陸を開始し首里方面に進撃、第六二師団がはげしい邀撃戦を行なうも、消耗が大きかったので4月14日より二四師団も中部地区に進出、5月20日頃から敵軍が首里に滲透してきたので、5月29日より持久戦のために南部島尻地区の丘陵に転進した。6月2日より6月17日まで、八重瀬岳、与座岳の陣地に拠って南下する米軍を迎えて2週間にわたって激闘、敵の損失も多大であったが、我が方も将兵、兵器、弾薬の多くを失なう。師団司令部は宇江城におかれていたが、圧倒的に優勢な敵兵力に押されて、6月30日、雨宮師団長以下幕僚、各部隊長はみな自刃した。負傷して戦場にとり残されて捕虜になった者はあるかもしれないが、激戦を重ねた模様からこの師団の生存者は殆んどないと推察される。
 私はこの児玉さんの書簡から、第二四師団(山部隊)の沖縄戦の概況をつかんだ。旧陸軍の幹部たちの情報だから、これは九分九厘までまちがいないものと思った。
 ウチナの二人と話すとき、幸喜や米須は「宇江城」といったし「雨宮部隊の司令部があったところ」、そして「そのおかげで被害が大きかった」といった。私はそのあとで、
「米須君の村に司令部をおいたという雨宮部隊が二四師団、山部隊で、私はその部隊の歩兵二二連隊が原隊だったんだよ」
 奇しき因縁を話題にしたものである。米須君は、「そういえば村の入口に残る弾痕のあるガジュマルの下に『山部隊本部』という標注がありましたよ」といった。そしてこんな話をしていた。
 「山部隊はあちこちのガマに立てこもって沖縄戦が終わってからも、10日間ちかくも戦闘をつづけたそうですから勇敢だったんですね。でもね、生き残った村の人の評判はとても悪いですね。友軍は沖縄を守るはずでしょうが、実際は住民の壕や食糧を奪ったり、泣くからといって乳呑子を締め殺したり、若い女の尻を追っかけたり……、そして二口めには俺たちが沖縄を守ってやっとるんだ、がまんせい、という……」
 幸喜君や米須君にとって、「友軍は精神のよくない人種」だったようで、わが「山部隊」も汚名を残して散華していったことを実感させられた。

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