第10回/1996年1月号掲載
丸木政臣(日生連委員長※/和光学園園長) ※現在は顧問

戦友追慕


 生き残りの准尉

 ふりかえってみると、私が1946年秋に教員になったころというのは、アメリカも日本の軍国主義の払拭に熱心なときで、耳なれない「民主主義」という話が氾濫していた。学校も軍国主義、国家主義の追放に忙しく、大政翼賛会に熱心であったベテラン教師たちは追放され、名だたる大校長たちも職を失なった。食糧事情がわるく欠食児も多く、教室も不足していたので二部授業であった。戦災のために住宅は不足し、焼跡・闇市の時代だったが、教員はもちろん、親も子も戦争の重圧から解放されて明るく希望に満ちていた。当時の新聞に「東京の児童の有様」としてこんなことが書かれていた。当時の私のノートから抜粋する。
「子どもは疎開して田舎をあちこちたらいまわしされているうちに、家は焼かれてしまい親兄弟を失ったものも少なくない。帰ってきても家はなく、学校は焼失していた。残った者は食うことに追われた。焼け残った校舎の一隅を使って授業が開かれた。食糧事情はどこもひっぱくしていて、朝も昼も代用食、といっても雑草をこねたものである。それもときには欠食するので、とびまわるのも苦痛である。みんな動くのもおっくうで日当たりでぼんやりしている。がまんできなくなって闇市をほっつきまわったり盗みもする。進駐軍を追っかけては「ギブ・ミー・チョコレート」とやる。親も子も闇かせぎに必死である。自由や民主主義はあっても、子どもも教師もその日の食生活にあくせくしていたのである。……」
 熊本と東京ではきびしさにも差違があったのかもしれない。しかし私の担任学級の生徒にも戦争で父を亡なった者3人、戦災で家を焼かれた者7人、市場の仕入れのためにかならず遅刻する者、親と一緒に商いをするのに早退する者も数人いた。多くの子が学校ではほとんどがおなかを空かしていたが明るかった。暗い戦時下、読むこと、学ぶこと、仲間と遊ぶことをうばわれていた子どもたちに、ようやく学校らしいものが還ってきたのである。“みかんの花咲く丘”という童謡があるが、あの歌がラジオ歌謡で流れてきたのもあの頃だと思うが、なだらかな段々畑のみかん山、その向うにひろがる大海原に、白い大きな汽船がとおる。甘い、温かいメロディは空襲のなくなった戦後を象徴しているようで、いまでも時折このメロディを聴くとわけもなく涙が流れてくる。
 47年の夏、戦争が終わって3年目、復員連絡局の課長児玉勇一氏から手紙が舞いこんだ。それによると「あなたが消息を知りたがっている第24師団(山)、第二二連隊の詳細を知る者が判明した。それは同連隊人事係准尉末田四朗という者で、重傷を負い米軍病院で手術を受け、目下、佐賀県嬉野陸軍病院(現国立第二病院)に於て加療中、当方より同病院に照会して末田准尉の所在を確認した。あなたが若し直接訪問されるならば、日時をお知らせあれば、当方より先方宛その旨事前に照会しておくことにしたい」というものであった。沖縄は遙かなる海の彼方、それも米軍統治下の異国であって、私のように戦争のようす、戦後の状況をどんなに知りたいと思っても知りようがなかったから、私はこの手紙にとびついた。復員連絡局にお願状を差し出すとともに、末田四朗氏あてにもお伺いしたい旨の手紙を書いた。
 私は夏休みになるのを待ちかねて佐賀県の嬉野温泉まで出かけた。田舎とばかり思っていたが嬉野温泉は渓谷にひろがった温泉郷で、陸軍病院があるだけに繁華なところである。私は所用の手続きをして、第二外科病棟に末田准尉をたずねた。病室の入口に立つと、訪問を待っていたように末田准尉とおぼしき白衣の人は私の方に歩いてきて、はっきりしない言葉で「末田です、丸木さんですね」といった。見ると杖をつき、顔半分が絆創膏、右腕が肩からバッサリと落ちていて、右腰がいびつにゆがんでいて無残であった。一瞬胸を衝かれた。病院特有の消毒薬の匂い、何十人もの白衣の人々。戦後3年というのに、ここではまだ戦争は終わっていない感じである。私は携えてきた食べ物のお土産をぶらさげて、末田准尉のあとから面会室についていった。
 問わず語りに末田氏は語った。
「私はね、志願兵で満州の山東で新兵教育を受けました。そして歩兵第二二連隊で下士官勤務をしました。もともとは関東軍ですが、これが昭和19年に第二四師団に編入され、ソ満国境にソ連軍が押しよせることを予期して、沖縄に派遣されたのです。はじめのうちは沖縄の中部に行きましたが、あとで南部に移り、私は二二連隊の人事係で糸満の連隊本部にいました」

 八重瀬岳(やえぜだけ)の戦闘

「それで末田さん、あなたはどこでそんな負傷をされたんですか。大変でしたね」
「ちょっとここに沖縄の地図を持ってきましたので、これを見て下さい。この長細い島の先きのほうに八重瀬岳、与座岳と山が連なっているところがあるでしょう。この山の緑で日本軍は6月の10日頃から1週間ばかり激しい戦闘をやったんです。ずっと米軍に追われて首里からここまでやってきた二二連隊は、あらかじめここに陣地壕をたくさん掘っていましたから、ここに野砲、迫撃砲、重機関銃を配置して、南にせめてくる米軍を迎え撃ったんです。6月13日、米軍の戦車隊が10輌以上もやってきて、戦車砲、火炎砲で滅茶苦茶にやられ、私たちの壕など岩盤そのものが吹っとんだんです。そのとき私は顔半分をとばされ、右腕はブラブラになり、腰は砲弾の破片の盲管銃創でした。命が助かったことが不思議なような重傷でした。それから戦場を這いまわって逃げましたが、19日に米軍の捕虜になり米軍野戦病院に収容されました。まあ、アメリカに命を助けてもらったようなものですね」
「私の戦友で知念清一、仲村正儀、松田和友の3人が二二連隊に配属されていたはずですが、何か消息はわかりませんか」

 私はこうきりだすと末田准尉はしばらく天井の陽を見ていたが、やおら口を開いた。
「確認したわけじゃありませんが、3人とも戦死されたと思います。あれは4月14日ですが、この地図の中ほどに嘉数(かかず)というところがありますが、ここでの戦闘で迫撃砲中隊の仲村小隊長がやられましてね。じつは嘉数というのは、首里三二軍司令部の前哨基地でしてね。嘉手納(かでな)の海岸に4月1日に上陸をした米軍の大部隊は、首里司令部を攻めるためにこの嘉数に4月7日には殺到したのです。この辺を守っていたのは、第六二師団(山部隊)でしたが、はげしい抵抗戦をやったんですが、一つの師団では難しいということになって、私たちの二四師団(石部隊)に救援の命令が出たんです。われわれは糸満の方から急遽かけつけたんですが、嘉数や浦添にやってきたのが13日で、空爆と艦砲のあとに野砲、戦車砲の攻撃があり、そのあとに銃撃戦が重なりとてもアリの這い出るすき間もないような戦闘でした。14日に嘉数部落の洞窟陣地で迫撃砲攻撃をやっていた仲村小隊に数発の艦砲が炸裂しました。昼は動けませんので、夕闇にまぎれて救出に行ってみたら艦砲弾で大きな穴が出来、砲煙、土煙がもうもうとしていて小隊は影も形もなくなっていたそうです。この嘉数の攻防戦で、山部隊は8割ちかくがやられ、わが石部隊も半分の兵力を失いました。ここでの戦いが5月初めまでつづき、われわれは運玉森(うんたまむい)というところに移り、やがて首里司令部に合流しました。知念少尉は、速射砲中隊付でしたが、天久(あめく)の戦闘で砲を全部破砕されたので、重機関銃中隊で中隊長代理をやり首里司令部ではよく顔を合わせていました。泡盛(あわもり)を飲んでカチャーシーを踊るのがうまくて、戦さの合間にもみんなで囃子をいれて彼の踊りを楽しんだものです。われわれが首里を撤退するのは5月26日、それからこの地図のように南風原(はえばる)、東風平(こちんだ)を通り、雨の中を南部に歩きつづけたのです。道端に子どもを抱いた住民の死体や弾丸に当った兵士の死体がゴロゴロしていました。そしてようやく八重瀬岳のかねて準備した陣地壕にたどりついたのです。6月5日頃にここに着き、約10日間、石部隊最後の激戦をやるわけです。知念少尉は、私がやられる前に夜間斬込み隊で一分隊を率い、自動砲の集中砲火で戦死したもようです。彼は勇敢でしたが多勢に無勢、一方的な虐殺ですから、本当に残念なことをしてしまいました……」

 戦場彷徨

 あとで沖縄に行って末田准尉が話した所あたりを歩いてみたが、八重瀬岳というのは東風平町富盛の西に屹立しており、さらに西の与座岳に連なる山地が中部に向って断崖腺をつくっていて、喜屋武(きやん)半島の入口を扼(やく)している。ここが米軍に対する日本軍の最後の戦闘の場所になったのは容易に首肯できる。十数年前のことだろうか郷土史研究家の与儀喜一郎さんと、戦史研究家の大城将保さんと3人で、八重瀬岳中腹の崖に日本軍の陣地壕を発見し、アダンを切り、蔓を払ってなかに踏みこんだら、重機関銃の銃座を囲んで6人の日本兵の遺骨が、火炎放射器で焼かれたままの姿勢で並んでいるのに3人一様に「ウッ」といったまま声が出なかったことがある。末田准尉が米軍の戦車砲で岩盤もろとも吹っとばされたのもこの辺りのことであろう。日本軍の「軍隊」としての組織的戦闘は6月17、8日頃までのこの稜線の戦いで終わり、あとは敗残兵となり避難民といっしょに喜屋武岬、摩文仁(まぶに)岬の方面に逃げ場をもとめて彷徨することになる。もう戦争などというものではなく、物量をほこる米軍の一方的な虐殺である。米軍ではジャパニーズハンティングと呼んだという。狩猟というゲームだったのだ。沖縄戦での日本軍の死者9万人、住民その他の死者15万人のうち、その半数近い10万人位は、八重瀬岳の戦闘以降、南部一帯の「戦場彷徨」で虐殺されたものといってよい。
「末田さん、それで松田少尉の消息はわからないのですか」
 私がこう聞くと、末田准尉は、
「あの人は長崎高商出身で英語がよくできましたので、連隊本部の情報係副官をやっていました。主として暗号解読の仕事です。6月20日すぎに、連隊本部が玉砕したときに一緒だったといわれています」
と言った。
 私の戦友3人は「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ、死シテ罪科ノ汚名ヲ残スナカレ」の「戦陣訓」の通り沖縄戦で散華したのである。

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