第11回/1996年2月号掲載
丸木政臣(日生連委員長※/和光学園園長) ※現在は顧問

沖縄(ウチナー)とは何か


 沖縄疎開児童の死

 1947年4月から「6・3制」がスタートした。私は付属国民学校高等科の教員であったので、新制中学の教員第1号となった。ラジオ放送で「鐘の鳴る丘」の明るいリズムの歌謡が流れはじめたころ、学校では『あたらしい憲法のはなし』の黄色い表紙の文部省発行の副読本の勉強がはじまった。「日本国憲法」の解説書のようなもので、誰が書いたのか知らないが訴える力があった。
「みなさんの中には、こんどの戦争にお父さんやお兄さんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともおかえりにならなかったでしょうか。……」
 私が朗読するうちにビルマで父親を失った山崎君が突然声をあげて号泣した。思わず教室のあちこちですすり泣きの声が起った。
「山崎君、中村君、清水君のようにお父さんが戦死した人、高田君のように空襲で家族を亡くした人、この戦争は私たちに大きな悲劇をもたらしました。その反省の上に新しい憲法では人間の生きる権利が何よりも大事だということで基本的人権とその平等を定め、他の国にさきがけて戦争放棄を決めたのです。世の中に正義ぐらいつよいものはありません……」
 私がこんな話をすると、生徒たちの間から拍手がきこえた。長い戦争で打ちひしがれていた生徒にとっては、こんな平凡な話も魅力的だったのであろう。
 その年の10月か、11月頃のことだった。熊本市からそうはなれていない山鹿(やまが)というところで小学5年の児童が殺されるという事件があった。その児童は戦争中の沖縄からの疎開児童であった。沖縄に米軍の上陸が迫ったとき、日本政府は戦争に直接に役に立たない老人や子供を九州や台湾に集団疎開させた。九州では熊本や宮崎に疎開した者が多く、熊本では山鹿・菊池・阿蘇が主な疎開地となった。多くがお寺・学校・旅館などに入ったが食糧などを携えているわけでもなく、地元の自治体などの負担になることが多かったので冷遇されるのが普通であった。戦争が終わって戦火に焼かれた郷里に帰る者、本土の親類縁者に引きとられる者が多かったが、家族全部を失なった児童は孤児となって残留せざるを得なかった。そんな児童の中に、飢餓に耐えられず夜畑作を盗みに入る者がいた。かねて盗みが横行するので、村の青年たちが夜警をしていた。そこに疎開児童がふたりで畑に入りこんで、その一人が捕まって青年に棍棒で撲り殺されたというのである。地方紙でこのことが報じられたあと、山本某という大学の先生がこんなことを書いた。
「この事件は戦後処理のあり方に一つの問題を投げかけたといえる。沖縄人は日本の中の異国人とはいえ、戦争によって疎開させられたものならば、早く郷里に帰してやるべきである。とにかく沖縄の土民は民度が低く、日本国民の道徳観によって同化されていないので、今回のような非道な事件が起こり易い……」
 私は当時をふりかえって、格別に沖縄認識が高かったわけではなく、まあ普通の人間だったと思うがこの人のコメントにはびっくりした。「沖縄人は異国人で、その土民は民度が低い」というのは、沖縄差別そのものではないか。
 折しも東京では、山口判事が闇米を買うことを拒否して栄養失調死するという事件がおこり、新聞で大きく報道された。国民は食糧危機で飢えにさらされていたので、“畑作荒らし”などどこでもおこったことである。なのになぜ沖縄からの疎開児童は撲殺されたのか、しかも「沖縄の土民だから仕方がない」と片づけられるのか、私の心には怒りが湧いた。

 沖縄の背負う二つの十字架

 私の学級の生徒たちに、沖縄疎開児童撲殺事件について「どう思う」と問題を投げかけてみた。基本的人権の学習をしていることもあって生徒の多くは「沖縄といって差別するのは正しくない。棒で撲り殺すなんて江戸時代のようだ」という反応であった。しかし男子生徒の中の数人には別の意見もあった。学級のリーダー格の清田君はこういった。
「僕の家の近くに沖縄出身の伊波さんという人がずっと住んでいて、僕の家とはつきあいがあるんですが、コトバも沖縄方言は独特だし、食べ物でも、風俗・習慣もとてもちがっています。つまり沖縄というのは独特の民族がつくり、日本とはちがった文化をもっているので、僕ら日本人の持っている道徳が身につかないんじゃないでしょうか」
 斎藤君という子はこんな話をした。
「私のとこは新市街で小さな食べ物店をやっていますが、あの辺りは沖縄からの労働者が多いんです。この連中の無銭飲食も多く、母なんかは沖縄ホイト(乞食)と悪口をいうこともあります。日本よりもうんと貧しいところだから、盗みなんかも多くなるんでしょうね」
 そして清田君は、「沖縄は日本と中国の間にある島国で、長く日本よりも中国の文化や経済の影響を受けてきたところですから、同じ日本でも“私たちの”日本とはちがったところになったと思います」といった。
 熊本というところは、昔から沖縄とは比較的関わりの深かったところである。空間的距離が割合に近いこともあるが、江戸時代の初めに薩摩の侵攻ににあい、いらい薩摩藩の支配を受けたこともあって、薩摩=鹿児島への感情には屈折があり、他方、西南戦争いらい鹿児島と熊本には双方に敵愾心があったことから、沖縄と熊本に親密感が湧き、「教育県沖縄」は上昇志向の名門の子弟を熊本の中学や高校に学ばせた。私の学んだ学校にも沖縄出身者が何人もいたし、軍隊だって連隊も師団もなかった沖縄では、壮丁の多くが熊本の部隊に入隊した。沖縄の学童疎開を多く引き受けたのが熊本だったことも故なしとしないことだ。そんな沖縄に近い熊本ですら、沖縄は異国だとする感情があったのである。そのことが、清田君のいう「沖縄の背負う歴史」に起因するというのも頷けることである。
 その翌年、新制高校発足の記念の集まりで早稲田大学の大浜信泉(のぶもと)氏の講演を聞く機会があった。演題は「沖縄の現実と将来」といったことであった。長身痩躯、眼鏡をひからせる大浜さんは気さくな口調で「人気歌手の仲宗根美樹さんのことはよくご存知でしょうが、同じところ出身の大浜のことは知らないという人が多いですね」と笑わせながら、「早稲田の先生だから、あなたは沖縄の土民とはちがうでしょう、などと暴言をはかれ、あたかも沖縄は異国人だという人もあります」と最初から痛烈な切り口で話にはいられた。そして「この前子供連れで私を尋ねて来られた人が、アメリカ大使館の前を通った時、その子がパパここにも沖縄の旗がかかっているよ、といったので身の毛のよだつ思いがしたといわれた」とエピソードをまじえながら、「沖縄が何百年かの歴史の道程で日本本土とは異なる文化の成り立ちをしてきたために、日本本土から故なき差別をされることになった」ことの上に、「太平洋戦争で日本唯一の地上戦の戦場となり、戦後はそのままアメリカに占領されて今日に至っているので異国のようになってしまった」として「沖縄は二つの十字架を背負わされたのです」といって壇上で言葉をつまらせられた。そして「沖縄は日本政府から里子に出されたようなものですが、でも親子の縁を切られたわけではなく、依然として日本の国民なのです」とつづけられた。私はこの大浜講演によって「二つの十字架」の意味がよくわかったし、ウチナンチュー大浜さんの真髄にも触れた気がして感動した。

 戦友 知念清一君のこと

 私は学級の生徒にむかって「沖縄疎開児童撲殺事件」学習の一環として、大浜さんの講演のことも話した。そしてその終わりに沖縄出身の戦友知念清一君のことを語った。

 私は“出陣学徒”として昭和18年10月、甲種幹部候補生として予備士官学校に入校した。戦争が激しくなり下級の指揮官が足りなくなったので、短期間で下級士官を養成するために、大学・高等・専門学校に在校する生徒を陸・海軍の学校に入れたのである。五体満足な学生ならば否ということはできなかった。1年そこそこで1人前の将校を育てようというわけだから、訓練のすさまじさは軍関係の学校でも随一といわれた。私はどういうわけか陸軍の中でも一番骨のおれる歩兵砲隊に所属させられた。歩兵砲隊というのは、分解搬送をするのに60キロの砲身を担いで走らなければならないし、その上に馬の世話、砲の手入れ、数学の勉強、砲の操作訓練など1日8時間、雨の日も、雪の日も年中無休でつづき、夜は3時間の授業。居眠りでもしようものなら教官から木銃で突きとばされた。一番つらかったのは空腹。教官は「貴様らが赴くところはフィリピンか、沖縄だ、飢えにうち勝つことが第一の戦闘だ! 胃の府を小さくするための訓練だ」といった。私は入校のとき56キロの体重だったが、3ヶ月間で46キロになってしまった。人間にとって飢餓状況ほど悲惨なものはない。教養のあるはずの学徒兵が残飯の奪い合いをしたし、馬糧の豆粕をむさぼり食った。いつも飢えている上に教官、区隊付下士官は、「学生あがりはたるんどるぅ!」といっては、暴力的な気合いを入れる。砲の手入れが悪い、薬莢を紛失したなどといっては広い演習場を半日も駆足させられる。乾パンを盗んだ、不寝番で眠った、馬の手入れを忘れたといったことで、飯ヌキ、石廊下に正座などと、あらゆる懲罰がおこなわれた。知念君についていえばこんなことがあった。彼は宮崎高等農林学校の出で、体重70キロの巨漢で、色が浅黒く眉毛の濃い鷲鼻の偉丈夫で、仲間の挨拶がいつも「オウース」なので、あだ名がオウースだった。ラグビーで鍛えただけに堂々としていて、私の分隊は彼のお陰で得をすることが多かった。彼は演習場の小休止のとき、行事の往き帰り、沖縄の知念半島の海の話をくりかえししてくれた。「サンゴ礁のリーフに白い波がくだけてョ、グルークンという小魚を手づかみでつかまえるんだ、いくらでも捕れてョ、あれを塩焼きして、泡盛をグイとやりたいョ」などなど。何度も聞くうちに青い海の沖縄が原郷のごとく感じられたものだ。
 ある日、非常呼集がかかって中隊全員が営庭に整列させられた。12月末の厳寒の夜であった。松岡中隊長が、「本日夕刻、裏門から脱走を企てた生徒がいる。幸い巡回衛兵に制止されて逃げ戻ったよし、わが中隊に戻ったことはまぎれもないことだ。その脱走兵は誰なのか、いさぎよく名のり出よ、よいか!」と凛として叫んだ。200名の隊員がその瞬間どよめいた。とっさに私は、さが分隊の楠本直という男にちがいないと思った。彼は朝、京都の母から「チチキトク ハハ」の電報を受けとっていたし、夕刻から姿が見えなかったからだ。
「おい、名のり出よ、今なら遅くない」
 区隊将校が数名同時に声を上げた。隊員は息を呑み静まりかえった。その時である。私の隣りに佇立していた知念清一が一歩前に出て「申しわけありません、それは知念候補生であります」と名のりをあげた。彼はsyんじに私同様おなじ分隊の楠本がその犯人だと思ったのである。第一区隊の白水中尉が、「貴様か、この沖縄ヤロー、貴様ならやりかねないな、歯をくいしばれ、いいか!」鉄拳が知念の顔に炸裂した。5、60発、殴り蹴り、そのたびにぶっ倒れ、そして知念は血だらけになってよろよろと立ち上がった。殴っても立ち上がり、踏んづけても立ち上がる阿修羅の形相の知念に剛胆な中尉もたじろぎを覚えたようだった。みんながかたずを呑んで見守る中で、中尉は「こらっ沖縄ヤロー参ったか! このヤロー」とわめいた。そのときよろよろしながら知念は叫んだ。
「わしは参りません、沖縄人の魂を見てください。殴って下さい。オウース……」
 よろめいて倒れ、地に這う知念を見ていて私はポロポロ涙を流した。

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