第12回(最終回)/1996年3月号掲載
丸木政臣(日生連委員長※/和光学園園長) ※現在は顧問

朝鮮戦争の危機感のなかで


 末田准尉の述懐

 陸軍病院に末田准尉をたずねたとき、准尉というのは特進した兵隊の最高位「特務曹長」で、さぞかし軍人臭い人だろうと想像していた。その予想はみごとに外れて末田准尉は、「末田さん」と呼ぶにふさわしい軍隊のサビのついていない人であった。珍しい人に逢ったという記憶がいまも鮮明である。
 私は末田さんに「沖縄戦はもっとも激甚な戦いで、“十中九死”といわれたそうですが、重傷を負いながらも生きて帰られたというのは奇蹟のように思えるんですが……」と問うてみた。
 末田さんは、頭を包帯でつつんでいるので声が聞き取りにくいが、かすれた声で「まあ消極的な戦闘忌避だったのでしょうか」といわれた。
「それでも嘉数の戦闘から首里の攻防戦まで、つまり5月の20日過ぎまでは部隊の主力はなくしましたが、私を含めてみんな士気旺盛だったのです。米軍の攻撃が北西部から激しくなるにつれて、残存部隊は三々五々南へ転進しはじめたのですが、こうして逃げるとなったら途端に命が惜しくなるもんですね」
「首里から南部へは沖縄の住民も一緒に逃げたわけですよね、ほとんどが南風原(はえばる)、山川、東風平(こちんだ)という一本道を辿ったのでしょうから大混雑だったでしょうね」
「5月から6月は雨期ですからね。沖縄の雨はとくにひどいですよ。それに橋や十字路などには間断なく砲弾が炸裂しますので、どこもかしこも泣いたり喚いたり、道端には負傷者や死体がゴロゴロです。われわれ兵士は敵弾に倒れても仕方がありませんが、憐れだったのは住民ですよ」
「沖縄の住民が日本兵を恨みに思っているときいたことがありますが……」
 末田さんは当時を想起して重苦しい気分になるのか訥々とこんな話をした。
「日本の兵隊が負傷したり戦死したりするのは、戦争だから仕方がないですよね。でもね、自分たちの村が戦場になった沖縄の住民はかわいそうでした。いや、本当に言葉に尽くせないむごい目に合ったと思います。……糸数(いとかず)、船越、東風平とわれわれは八重瀬の陣地までいそいだのですが、南に行くにしたがって米軍の攻撃はひどくなりました。グラマンの低空射撃と艦砲射撃ですが、グワングワン、ヒューッと艦砲が頭上をとびこえていくのです。そのたびに道端に伏せるのですが、死体だらけですからそこにもぐりこむことになります。……ひょっと見ると赤ちゃんをおんぶした母親が頭を割られて虫の息で、そばで赤ちゃんがピクピクしている。かわいそうに思ってもどうにも出来ませんものね。私の後からきた二人の兵隊が、その母親が腰に巻きつけていた米袋を奪う、それも倒れたばかりの人のものを持っていくのです。戦争というのは本当に残酷なものですね。……東風平辺りの丘陵で、私たちの部隊の先発が『ガマ調達』をやっていました。つまり住民がかくれているガマ(洞窟)に押しかけ『こらっ、このガマはいまから軍が使用する、直ぐ出て行け!』といって住民を追い出して兵隊がもぐりこむのです。その時、食糧も水もみなとりあげます。……そのガマでは老婆が、泥の中にひざまずいて、ここを出て行ったら、アメリカーの弾丸に当たります。なんとか2、3日待って下さい、と手を合わせました。すると下士官は軍刀をひっこ抜いて、ようしじゃ首を切ってやるとおどかすのです。……もう沖縄住民は日本軍は友軍だとは思わなくなっていました」
 末田さんの反省と慚愧の思いをこめて語る話に、私はいつしか胸が痛くなる思いで聴き入っていた。

 俺はウチナンチュじゃい

 末田さんから聞いたことをメモをたよりに再現してみる。
 首里を中心に中部の戦線で惨憺たる被害を蒙った山部隊の二二連隊は、雨の中を這うようにして八重瀬稜線一体の陣地に辿りついた。それは6月の5日から10日頃のことである。それから約10日間、日本軍最後の激戦が展開される。米軍は艦砲、空爆、戦車砲で洞窟陣地を徹底的に破砕する。そのうえで一個師団の海兵隊が火炎砲を先頭に攻撃してくる。これに比べて日本軍は負傷兵が多く、銃器、弾薬も乏しかった。米軍はつぎつぎに新規の兵力を投入してくるので、彼我の戦力は格段にちがっていた。それでも八重瀬岳、与座岳の戦闘は、摩文仁、荒崎、喜屋武方面に米軍の侵入を許すまいとする日本軍の徹底抗戦によってまさに「鉄火地獄」といわれるような激闘となった。
 知念少尉は、重機関銃中隊長の戦死のあとをうけて中隊長代理として八重瀬岳に布陣していた。すでに重機関銃1機をもつのみとなり、下士官以下の兵士も生き残りの者の寄せ集め100名ていどになっていた。八重瀬に移る途中、富盛の知念たちの壕の近くで、日本軍の敗残兵が村の娘2人を連行し、泣きすがる老人を殴ったり蹴ったりするというさわぎがあった。娘の一人を抑えつけている下士官は、「俺たちはお前ら沖縄人を守るためにこんなひどい目にあってんだぞ! お前ら少しは日本のためになれ、手向かう奴はうち殺すからそのつもりでいろ!」とどなっている。ほかの敗残兵たちも、住民の食糧や水を奪って「お前ら誰のおかげで生きていられるんだ!」と取りすがる住民を足蹴にしている。雨のあがった薄暮である。知念少尉は3人の観測班の者と一緒に砂糖黍畑の丘からおりてくるところで、娘たちの悲鳴をきき、走って集落にやってきた。
「こらっやめんか、やめろ! このウジ虫ども、手を放せ!」
 知念たちに瞬間たじろぎをみせたが、敗残兵7、8人はすぐ開き直り、
「この負け戦さに将校も何もあるかい、黙って沖縄のために死んでいけるかい……邪魔だてするなら貴様らとやるか」
と、軍曹の一人が刀を抜いた。自暴自棄になっている敗残兵は殺気だっている。
「なんだと俺はウチナンチュじゃ、ウチナも日本じゃ、だから命がけで戦っとるんじゃ、こらっその娘さんや年寄りをはなせ、いうこと聞かんとぶっとばすぞ!」
 1米80センチの巨体の知念少尉は、小脇に米軍の自動小銃を構えた。軍曹が刀をふりかぶったとき、知念の小銃がダダダッと音をたて、傍らのガジュマルの幹に弾丸がつきささった。敗残兵たちは、ウチナンチュの少尉は本気でやる気だと思ったのか、一目散に夕闇の中に逃げこんだ。
「知念少尉が斬り込み隊を率いて敵戦車隊に突入したのは、私がやられる前の日、6月12日、雨の晩でした」
 末田さんはこう言った。
 米軍はとても用心深くて、夜は幕舎や弾薬・糧秣庫のまわりを戦車隊で円陣を組み、日本軍の夜襲に備えた。その日、連隊命令で「爆雷による戦車と弾薬庫の破砕」が命じられた。別段、中隊長が斬込みの指揮をとることはなかったのだが、「今日の斬込みは知念少尉と第1、第2分隊がやる」といって自ら「特攻攻撃」を買って出た。屈強な背中に爆雷を背負って出撃の先頭に立った。
 知念の胸の中には、ウチナンチュのヤマトンチュに対する怒りがたぎっていたのではないだろうか。日本は沖縄を守ってやっているという思想に対して、彼は自らの死によって抗議したのではないだろうか。私は知念の濃い眉毛、ギョロ目、鷲鼻の顔を崩れるように笑み、「オウス」とどなるように言う口癖がなんどもよみがえってきて息苦しかった。

 朝鮮戦争のさなかで

 私の著書『教育の原点を求めて』の中に、熊本大学付属中学校の頃の生徒山本桂子さんの「私の受けた中学教育」という感想文が収録されている。山本さんの中学生時代というのは、1949年から52年の春までである。ふりかえってみると幸喜や米須という軍隊仲間と交流したり、昔の上官児玉勇一氏をたずねたり、山部隊二二連隊の元准尉末田四朗氏を何度か訪問したりしていた頃である。山本さんの感想文を引用する。

 私の中学時代三年間は丸木先生が学級担任であった。社会科や国語の時間を担当してもらったが、若いさかりであったし、きわめて情熱的であり、真摯な学究であったから、生徒たちはいつも先生と語り合うのを心待ちにしていた。先生が怒れば生徒も怒り、先生が嘆けば生徒も同じように嘆いた。だから私の中学、高校時代というのは丸木先生ヌキには語ることができない。三年間の中で一番大きな出来事は、大戦が終わってまだ五年と少ししかたっていないのに、五〇年六月に朝鮮戦争がはじまり、「また戦争か」という危機感が社会全体にひろがったことである。
 丸木先生は自らの体験を語り、それをもとに生徒に感想や意見をのべさせられた。先生の戦争体験というのも、一回こっきりのものであろうが、それをもとでに生徒に考えさせるというのが歴史学習の手法であったようだ。先生は戦争中、沖縄に赴くべきところを、運命の皮肉で生き残ったということから、沖縄に渡って戦死した仲間のことにこだわりをもち、米軍の占領でベールに隠されている戦後の沖縄のことをつかもうと必死であったようである。先生の沖縄理解がどんどん深まっていくのは、生徒の私たちでもよくわかった。先生は戦争についてよく語ったし、生徒の意見も求めた。「学徒出陣とは何であったか」「特攻隊員の死生観」というようなこと、それから「沖縄戦とは何であったか」「戦友たちはどんな死に方をしたのか」といったことを、自分が歩いて調べたことを語ってくれた。そしてだんだんと「戦争は国民を犠牲にする」「沖縄県民は米軍にやられ、日本軍にもやられた」「日本人の中には沖縄差別がありそれが戦争の犠牲を大きくした」というように話が深まっていった。
 それはたぶん朝鮮戦争が世界戦争になるのではという危惧が先生を内側から動かしていたのではないかと察せられる。私たちは朝鮮に近い九州に住んでいるので、戦争のキナ臭い匂いはどこよりも強かった。福岡の板付空港に運ばれた米兵の遺体が、死体処理場になっていた熊本の町にどんどんトラック輸送されてきた。先生は米・ソの冷戦が第三次世界大戦に転化する危険を感じ、米軍占領下の日本は完全に「沖縄と同じことになる」と思っていたようである。だから朝鮮戦争の激化とともに先生の沖縄理解もだんだんと深まっていったように思われる。私たち生徒も先生の緊迫感をひしひし肌で感じたものである。
 一級上に大湾清人君という本土疎開組の沖縄の子がいたが、先生は大湾君とよく話し合っているのを眼にした。大湾君は両親と兄さんを戦争で亡くした孤児で、親戚の家から通っていた。丸木先生は沖縄にこだわっている人なので、大湾君のことが不愍でならなかったのだろうと思う。大湾君が生徒会の執行委員会で「あの先生は沖縄の人よりもうんと沖縄がわかる人だ」といったことを思い出す。私の知るかぎり先生の沖縄探求は一貫して倦むことはなかったようだ。

 この感想文は昔の教え子山本さんが、いまから20年以上前に書いたもので、彼女にしても30年前の少女時代を回想しているのである。それにしても純粋な子どもの頃に刻まれた記憶はとても正確で、その当時の私の仕事ぶりを生き生きと焙り出してくれている。

(未完、いったん擱筆。いつの日か機会をえて続篇を──)

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