連載 ファッションとジェンダー/第1回(2000年4月号掲載)
子ども服とジェンダー
宮谷史子 ファッションライター


 私は長いことファッションの仕事をしていたが、子ども服に関しては専門外だった。
 子どもだって、笑って泣いて食べて寝る人間だ、「着る」という本質的な行為にそうは違いはあるまいと思っていた。
 自分が子どもを持つまでは。

──ベビー服売り場のピンクとブルー
 ところが、初めて子どもの服を買いに行ったデパートのベビー服売り場で、私は度肝を抜かれてしまった。
 売場が女の子用にピンク、男の子用にブルーと見事に色分けされていたからだ。モノトーンも原色も、紺やベージュやグレイ等のもっともフツーの服の色もない。
 走り寄ってくる店員は開口一番「女のお子さんですか?男のお子さんですか?」と言うし、「白やクリーム色は、まだ生まれないベビーにプレゼントする時用です」と言うではないか。
 「なにそれ 生まれたばっかりの子どもを、なんでそんなに女だ男だと色分けする必要があるのよ。男でも女でもよけいなお世話よ」親切そうな店員に引きつり笑いをしながら、私は心のなかで毒づくしかなかった。
 だって私は、子どもには絶対に「男だから女だから」とは言うまいと決めていた人なんだもの。
 まあ、さほど深い意味があった訳でもなく、単に自分が「女だから」とか「女のくせに」とか言われていやだったから、子どもには言うまいと思ってただけなんだけどネ。だって、子どもにとってあんなに不公平で理不尽な言葉はなかったもの。
 しかしそれにしても、女はピンク男はブルーと実にイージーに決めつけてくれた上に、このいかにも「甘い可愛い私のベビーちゃん」と言わんばかりの、甘ったるいパステルカラーのワンパターンはいったい何なんだ。「赤ん坊は母親のおもちゃか? 縫いぐるみ人形じゃあるまいし」……まあとにかく、なんだかやたらと神経を逆なでされるベビー服売場の光景だった。
 しかし、今から考えれば「ベビー服売場のピンクとブルー」なんて……私と子ども服を通して見える「大きな力」とのそれからの長い戦いの、ほんの前哨戦にすぎなかった。

──子どもの着る気持ち
 子どもが大きくなると、私は「楽しく着せてやろう」と思うようになった。
 忙しくて、ろくな躾もせず保育園に一日中子どもを放り込んでいる母親ではあったが、「ステキなことや楽しいことはいっぱい教えてやりたい」という思いはあった。
 思いはあっても忙しかったので、いきおい「食べる」「着る」「絵本を読む」といった、実に身近でお手軽なことが中心になる。
 それでも小さい子どもというのは、裸んぼうでいるのが大好きなのと同じぐらい、「着る」ことも大好きなようだった。
 「すべすべフワフワしてるから」とか「消防自動車みたいに真っ赤だから」といったたわいもない理由で、その子にとってかけがえのない大切な1枚の服や毛布が出来上がる。そして、そんなお気に入りの服や毛布を身にまとうとき、子どもは本当に幸せそうに飛び跳ね踊り回り、抱きしめて眠る。
 心から色や形や感触を喜び、身体中で服と一体になり「着る」喜びを表現している子どもの姿を見ていると、そこには見栄もてらいも虚栄もない、大人が忘れてしまった本当の「着る楽しさ」があるようだった。
 そんな子どもの気持ちってなんてステキなんだろう。そんなワクワクする気持ちや感性こそ、人間のものすごく大切な力になるんじゃないかしら。そんな気持ちの中にこそ、子どもが大きくなったら「絵を描きたい」とか「ダンスをしたい」といった、自分を表現する力も隠れているんだろうな……私には、そんなふうに思えた。
 早期教育や才能発見にはまったく関心のない私だったが、子どものそんな気持ちは生活のなかで大切にしてやりたかった。
 そんなわけで、私は子どもの着るものに無頓着な親ではなかったが、時間的にも経済的にもさほど余裕があるわけではない。それでも、おさがり、古着屋、スーパー、撮影後の買い取り(6がけぐらいになる)などと、ファッションのプロの手を尽くして、シビアに納得のいく子ども服を吟味した。
 着やすくて、動きやすくて、安全であるのは……子どものため。
 丈夫で、値段が手頃で、洗濯がきくのは……親のため。
 フツーでシンプルで、飾りもいらない。よけいなジェンダーの刷り込みもいらない……これは、私の「子育て」のため。
 色もデザインも性別も自由でいい。その子らしくて似合っていれば、女の子用でも男の子用でも大人用だっていいじゃない。
 で、私の子どもは男だったが、当然女の子からのお下がりの赤いコートもピンクのシャツも着せた。ついでに、幼い子どもが女の子のおリボンを羨ましがれば、おでこに真珠のヘアピンもとめてやった(男にだって、飾る権利もあるものネ)。
 そんな風に子どもに服を着せながら、幼い子ども達をとりまく社会を眺めているうちに、「ベビー服売場のピンクとブルー」は、思った以上に深刻で根の深い問題だということに、徐々に気がついていった。

──スカートとアニメ
 そのひとつに、小さい女の子たちに対するスカートの弊害があった。
 今でもどんなに多くの女の子たちが、幼い時からスカートをはかされては、母親に「女の子でしょう、お尻丸出しにしないの 足を広げて座らないの」と、のべつ叱られていることだろう。
 あのスカートという足もお尻も無防備な服を、少しもじっとしていたくない幼いうちから着せられ続けることによって、女の子達はどれくらい、活発な身体の動きや素早いフットワークを封じられていくことだろう。
 子育て中の母親たちは、よく「やっぱり女の子はおとなしいわ。男の子に比べたら動きが全然違うのよ」と無邪気に言い放っていたものだが……これこそが、母親が無意識のうちに女の子に繋げていく、この社会を生きていく為の最大の「教育」というわけだったのだろうか。
 このスカートの弊害は、男の子たちがことあるごとに「男の子のくせに泣くんじゃないの」と言われる以上の、根深いジェンダーの毒のように思えた。
 「ベビー服売場のピンクとブルー」は、家庭という小さな社会の中でも培養され、さらに強力な「女はおとなしく」「男は強く泣かない」という形に、増殖していた。
 女の子のスカートと同じような意味で、子ども服から見ていてかなり気になったのがTVのアニメのキャラクター達だった。
 だってコイツラときたらTVの中だけでなく、運動靴にトレーナーに下着のパンツにまでズケズケと入り込んできたんだもの。
 これは子どもは欲しがった。私はどうしても買いたくなかった。ケンカだった。
 アニメのキャラが全ていけないとは思わない。しかし私は、キャラ達のジェンダーの在り方があまりにもワンパターンなのが、かなり鼻についていたのだ。
 ヒーローは、強くて圧倒的にマッチョで、どづかれても切られても「痛い」とも「怖い」とも言わずに、起きあがっては戦っている。なんとかロボとか○○レンジャーといった、男の子達に人気のある「戦いもの」のほとんどが、このパターン。
 ヒロインは優しくて可愛くて、いくら意地悪されても「おまえはバカか」ってくらい、決してやり返したりしない。基本的に受け身なのね。ドラエモンの静ちゃんだって、絶対に男の子のサブでしかないでしょう。
 さもなきゃ、セーラームーンのようなピチピチの太ももにブーツといったやたら挑発的な格好の、(これは、欧米では娼婦のお決まりのスタイルなのね)色っぽいロリコン娘。
 それから、一見平和で無害に見える「ご家庭もの」にもかなり引っかかった。
 お母さんといえば、たいていエプロンかけた専業主婦で家事をしている。お父さんが家で洗濯物を干したり子どもにご飯を作ったりしてるシーンは、まずあり得ない。
 「女はおとなしく、男は強く」だけでなく、いつのまにか「男がメインで女はサブ」「男は仕事で女は家庭」というメッセージまで、幼児の世界にきっちりと入り込んでいるようだった。
 ……おい、おい、おい ちょっと待ってよ、私はそんなこと子どもに教えるつもりは全然ないっていうのに
 今、日本のアニメ文化の進化には目を見張るものがあるようだ。大ヒットしたエヴァンゲリオンなどを見ていると、主人公の在り方やジェンダーの描き方もずいぶん変わってきたなあと思う。
 しかし、今も昔も幼い子ども達が晩ご飯の前に食い入るように見入る、幼児向けアニメの世界はどうなんだろう?
 ドラエモンにしろサザエさんにしろロングヒットのアニメほど、そのわかりやすさゆえかジェンダーによる性格の決めつけや、旧態然とした男女の役割がきっちりと書き分けられているように思うし……それがまた、幼児への強力なメッセージになっているようにも思うのだが。

──もっと自由に、もっと楽しく
 私が子ども服の中のジェンダーの在り方にああもこだわったのは、ファッションライターの目というよりは母親の、それも母子家庭の目だったのだろう。
 が、それにしても大人のファッション感覚から見たら、子ども服のこのジェンダーの決めつけ方は異常だった。
 男に黒女に赤しか作らないカバン屋なんて、考えられる? 男にブルー女にピンクの服しか作らないアパレルなんて、成り立つと思う? ましてや、アニメのキャラがパンツにずかずか入ってくるなんて、そんな非常識なことは大人の「着る」世界ではあり得ない。
 子どもだから? 子どもならいいわけ? 子どもが喜ぶから、子どもが喜べば売れるから? ……私は「それは違う」と思う。むしろ子どもの服だからこそ、大人の責任として「やってはいけないこと」のように思う。
 私は今でも、子どもって本質的には社会が育てるものだと思っている。
 親がどんなにガンバったって、子どもは成長する過程でいやでもあらゆる種類の「女らしさ」や「男らしさ」にまみれていかざるを得ない。
 それならせめて、感性の柔らかい小さい子どものうちだけでも、古くさい手垢の付いたジェンダーに捕らわれることなく、思いきり自由に「本来のその子らしい個性」を羽ばたかせてやりたいと思った。
 運動神経抜群のケンカが強いガキ大将の女の子は……ピッチを縦横無尽に駆け回るサッカーの選手か、誰よりも速く走るカーレーサーか、それとも宇宙飛行士になるのかもしれない。
 泣き虫だけど人形が大好きな男の子は……夢のような服を造るデザイナーか、かっこいいカリスマ美容師か、それとも優しい保父さんになるのかもしれない。
 つまらないジェンダーで子どもの夢や未来や可能性を小さくする権利は大人にはない。
 子どもは社会を写す鏡だ。そして、子ども自身は、もともとは真っ白のキャンバスなのだから。

『生活教育』ホーム ライブラリーのトップ 次の回へ