連載 ファッションとジェンダー/第3回(2000年6月号掲載)
着る力、生きる力
宮谷史子 ファッションライター


──ファッションの低年齢化
 先日、本屋でかわいい少女たちに出会った。ジーンズの半ズボンやカウチンセーターに、砂色のマフラーをぐるぐる巻きしたり、黒いショルダーバッグを斜めがけにしたり、一生懸命オシャレを工夫した様子がよくわかる。
 クロスワード雑誌を囲んで「ねえねえ、この字読める?」と、漢字の当てっこなんかしてるとこ見ると、どうも小学生のようだ。
 それにしても、小学校の行き帰りに出会う赤いランドセルに体操着袋をぶら下げたおきまりの小学生スタイルに比べたら、なんてオシャレでかわいいんだろう。
 赤いランドセル姿が親や学校のお仕着せだとしたら、このかっこうは彼女たちの自由な私服なのだろう。
 こんな少女たちを見ていると「今の発育のいい小学生には、赤いランドセルよりも黒いショルダーバッグのほうが似合うみたいネ。あのランドセルってのも低学年の子には可愛いけど、高学年の子にはちょっとかわいそうだナ」などと思う。
 それくらい、とても自然で無理のない、ローティーンの子どもらしいオシャレだった。
 最近、「ファッションの低年齢化」を心配する声を聞くことがあるが、私はこんな子たちを見るに付け、ファッションの「低年齢化」なら、別段そんなに困ったことでもないんじゃないかなあと思ったりする。
 確かに、妙に大人びたぞろりと黒っぽい服に化粧の小学生や、金髪にだぼだぼパンツの小型ヤンキーみたいな子どもも時々見かけるが……「まあ、ああいうのはいつだって必ずいるのよねえ」などと、思ってしまう。
 思春期の子どもが通る通過儀礼のようなものが低年齢化しているだけなら、そんなに目くじらを立てることもないような気もするが。

──情報のなかの子どもたち
 それにしても「低年齢化」と言えば、今ってすごい時代だと思う。もう、私たちが育った「子どもが子どものままでいられる時代」では、とうにないのだろう。
 幼い時から子どもたちは、コマーシャリズムの中で情報に取り囲まれて、消費のターゲットにされながら育つ。
 犯罪も覚醒剤も成人病もセックスも、すべてに「低年齢化」が言われているが……これだけ情報をのべつに垂れ流している社会で、子どもが様々な影響を受けないわけがない。
 朝から晩までコマーシャルに物欲をかき立てられ、TVではチャイドルがしなを作って絶叫し、子ども雑誌は広告とタイアップ記事で埋まり……そういう中で、子どもは寝たり起きたり学校へ行ったりしているのだ。
 ゲーセンへ行けば、おこづかいで簡単に競馬もギャンブルも出来るし、コンビニへ行けばセックスいっぱいのレディコミだって、百円ショップへ行けばワンコインで口紅でもアイシャドウでも買えちゃうのだ。
 次々と現れる何万円もするゲーム機に何千円もするゲームソフト。子ども雑誌に堂々とある「アタマの良くなる」だの「たちまち英語が話せる」だののカセット一式うん万円。さも誰でもが行ってるかのようなハワイやアメリカでのバカンス情報。インターネット内でプレミアムが付いた十万もするスニーカー……こういうものの全てが、子どもをもろに直撃する時代なのだ。
 私なんて、子育てってのは「子どもの際限のない物欲」との戦いだと思ってたぐらいだ。
 私の子どもは男の子だったので、この情報社会の中での悩みは「物欲」ぐらいだったが、ジェンダーに目覚め始めた女の子の場合、ほとんど無節操に垂れ流されている危険な情報に、「ダイエット」がある。
 すでに私の回りにも、弁当にちょっぴりのフルーツしか持ってこない小学生がいたし、地域の中には拒食で入院した中学生もいた。
 死に至らないまでも、人格を蝕むほどに人を苦しめる摂食障害の入り口は、ほとんどがダイエットだといわれている。
 若い女相手のファッションという仕事柄、私はダイエットに関しては常に危惧を感じないではいられなかった。
 「ヤセているのが美しい」という観念は、完全にファッションの罪だという自覚もあった。
 たくさんのファッションモデルたちといっしょに仕事をしてきた私は、彼女たちのヤセかたが「普通のヤセかた」ではないことを、イヤと言うほど知っている。
 モデルの体型というのは、過酷なダイエットによって作られた人為的な体型といってもいい。いくら身体や外見が商売とはいえ、「このコちょっと危ないな、もうビョーキの域に入っちゃってるんじゃないかな」というモデルに出会ったのも、2回や3回ではない。
 そんなファッションの裏側を見てきてるだけに、「ああいう体型をお手本にファッションを考えちゃうのは、本当に恐いなあ」という思いがいつもあった。ましてや、子どもが「モデル体型」に憧れて過激なダイエットにハマってしまうなんて、本当にやりきれない。
 しかし近頃、子どもの好きなTVタレントが又、ほとんどこの「モデル体型」なのよねえ。

──ファッションも考える力
 しかしやっぱり、私はこんな時代だからこそ、子どもにもまっすぐに健やかにファッションを学んで欲しいとも思う。
 物欲のコントロールも覚えて欲しい。危ないダイエットにハマることなく、自分を大切にする賢いファッションを学んで欲しい。
 オシャレって、人が子どもから大人へ成長し始める時に、ジェンダーを意識し本当の自分を探し始めるときに、また「着ること」にも目覚め始めるものだ。
 親のお仕着せの服を脱ぎ、お仕着せのモラルや価値観を脱ぎ……心の奥を覗き込みながら、親とも友達とも違う世界で唯一つの自分の個性やアイデンティティを探し始める。
 ファッションもまた、自分の個性や「らしさ」を探す為の選択や決定であり、主張や表現であり、社会に対して独りで負わねばならないリスクや責任でもある。
 オシャレにも、「学び」がたくさんある。
 マジでカッコヨクなるためには、自分の長所も短所も把握し、コンプレックスとも闘わなければならない。溢れるような情報の中から、自分に必要なものだけ取り入れなければならない。取り入れただけでは「真似っこ」や「ミーハー」に過ぎないから、ステキに見せるには自分らしくアレンジもしなければならない。情報の吟味も咀嚼も展開も必要だ。
 そして、どんどん本当のオシャレに近づいていけば、いつかは「ブランドや流行ばかり追いかけてるのは、けっきょく自分に自信がないことの裏返しに過ぎない」ということにも気が付くだろう。
 「踊らせて飛びつく価値観にはすぐに飽きてしまう」ということも、「自分を表現する手だては金やモノだけではない」ということも、いつかは知るだろう。
 そして私は、女の子たちにはぜひ「ヤセていなければ美しくない。デブだったりオバサンだったりしては、女としてのアイデンティティが保てない」というオシャレ感覚の薄っぺらさや貧しさにも、必ず気がついて欲しいと思う。
 ファッションの中には、「金やモノばかりがサイコーで、人間を大切にしない」、そんな愚かしい情報はゴマンとある。危険なダイエットを始め、「女の人を軽んじたりおとしめたり」するたぐいの、ジェンダーの情報もけっこうある。そういうものから身を守る力を、子ども自身で身につけて欲しいと思う。
 「着ること」は自己主張し表現することだ。その難しさを知れば知るほど、人の主張や表現にも注意を払うだろう。そして、人と出会い、コミュニケーションも生まれるだろう。
 着ることの中には、違和感も偏見も独断も不調和もあるが、またコミュニケーションも友達も、冒険や喜びや夢もあるのだ。

──「学び」は自由のなかに
 私の子どもは小学校から高校までを自由な私服の和光学園で育ったが、私もまた親としてもファッションライターという眼でも、小学校から高校まで子どもたちを見つめ続けた。
 ファッションの眼で見ていると、小学校、中学校、高校とそれぞれの卒業式での子ども達の服装がとてもおもしろかったものだ。
 小学校の卒業式での子ども達の服装は、いかにも「生意気なようだけど、まだまだ親の息がかかっていますよ」という感じ。
 「好ましいローティーンの服はこうありたい」といった感じの、品は良いけどわりあい質素なブレザーやワンピース、セーターなどを、それでも子ども達は少し大人びた様子で胸を張って着ていた。可愛かった。
 しかし、これが中学になるともう「親の息」なんかどこ吹く風
 ほとんど「ど派手」に近い好き勝手な服で、それぞれの一世一代の卒業式をパフォーマンスしていた。羽織袴に振り袖、イブニングドレス風にセクシー系、もちろん普通のジーンズやスーツもいれば、マフィアのギャングもお祭りのはっぴ姿もいた。
 服装と言えばハチャメチャ一歩手前か。でも、あんなに子ども達の元気が生き生きと伝わってくる、楽しい卒業式の服はなかったなあ。
 高校になると、茶髪も金髪もボディコンまがいのミニや複数ピアスも、たくさんの通過儀礼を通り抜けた彼らは、もうしっかりと自立し始めているように見えた。
 中学の卒業式ではあれほど悪目立ちしてハシャいでいたあの子もこの子も、落ちついたフツーのジャケットやスーツをさらっと着こなしている。
 卒業式といえど、さりとて飾り立てるでもなく背伸びするでもなく、さり気ないオシャレですっきりと立っているのは、私が小さい頃から見てた「自由の中で育った子ども達」に多かった。
 卒業式という晴れのイベントでの装いは、そのまま彼らが親の手を離れて試行錯誤しながら自立していく、軌跡を見るようだった。
 そんな子どもたちのファッションから見えてきたことは、これが「なんの強制も禁止もない自由の中で、子どもが自ら付けた『考える』という体力なのだろう」ということだ。
 そういえば卒業式といえばもうひとつ、先日TVで「自由の森学園」の高校の卒業式風景を見ていたら、その中にちょっとステキな男の子がいたんだなあ。
 思い思いの派手な服でデモンストレーションしてる同級生たちの中で、それこそフツーの服を着た一人の男の子が、インタビューアーの「この学校で、あなたは何を学びましたか?」という質問に、考えながら言った。
「表現することかなァ……自分を表現すること。人の表現を知ること。そして、表現を人と分かち合うことかな」
 これは、大人だって持ってない人は持ってないといった類の、本物の知性だった。
 高校生でなくては言えない言葉だなあと思ったし、なんだかすごくすがすがしい、まっとうな若い人間を見た気がした。
 しかし、こういう子たちを見ていると、その子の生きていく体力になるような「考える力」って、そのための本当の「学び」って、決して強制や禁止の中にではなく、自由のなかにこそあるんじゃないのかしら……ファッションの力も。生きる力も。
 そんな気がしてならない。

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