連載 ファッションとジェンダー/第5回(2000年8月号掲載)
ジェンダーとファッション
宮谷史子 ファッションライター


 私はファッションと「性」を結びつけて考えていくことが多い。
 性教育なんてものには無縁の団塊の世代である私が、なぜ「性」という視点を持つようになったのか、一度私の性に対するスタンスを明確にしておこうと思う。

──ファッションという仕事場
 どんな職場にも、まだまだ様々なセクハラはあるだろう。
 私がいたファッションの現場にも、セクハラじみたことはごろごろ転がっていた。
 ファッションの仕事というものは、きれいなモデルをさらに磨き上げ、その一瞬の虚構の美のために百万単位の金が動くという、「女の美」が売買される市場でもある。
 そこでは、モデルは完全に美という商品だ。
 たくさんのモデルたちと仕事をしたが、私はモデルという職業の女の子たちには、常にハラハラさせられる思いが付きまとった。
 CMの仕事には必ずオーディションがある。私の役目は、たくさんのコンポジットの中からふさわしいモデルを選び出し、時間を少しずつずらしてクライアントや広告代理店や制作スタッフの集合場所に呼ぶという、オーディションの手配をすることだった。
 莫大な経費をかけた仕事の決定権は、まだまだ圧倒的に男たちが握っている。
 男たちの居並ぶ前で、モデルは微笑みながら行きつ戻りつ歩き、指定の衣装を着たり肩ひもをずらしたり、両手で髪を上げて回って見せたり……私、このオーディションってヤツが嫌いだったなあ。
 男たちは眼をギラつかせたただのスケベにしか見えなかったし、モデルたちは奴隷市場の商品で、私は女衒のやり手ばばあだった。
 オーディションに限らずモデルのキャスティングというのは、「いい女だなあ」に始まり「この女はブス」だの「品がない」だの「鈍そう(何が?)」だの、男たちが公然とスケベ心を満たす世界でもあった。
 私の選ぶモデルが「生意気そう」だからと却下されたことは、数限りない。
 撮影現場では、「クライアントにサービスさ」とうそぶきながら、セクハラじみたポーズをモデルに要求するカメラマンもいた。
 「生意気な女だ」と36枚撮り3ロールも4ロールもあるネガの中から、わざわざブスに写っている写真を選び出して、ページいっぱいにレイアウトさせた編集者もいた。
 好きで入ったファッションの世界ではあったが、ジェンダーに関する様々な嫌悪感や怒りを抱いていないわけではなかった。
 が、突き詰めて考えることは意識的に避けていた。フリーランサーがそんなこと考えたって、衝突して自分が傷つくか仕事がなくなるだけで、なにひとつ得なんてなかった。
 「まあ、男社会ってこんなもんだ」と黙ってやり過ごすことがクールな大人だと思っていた。クールな大人を必死で演じながらも、時おり男に対して牙をむき出すようなところもあったように思う。

──女って損だ
 私は東京の山の手のフツーの家庭で育った。もちろん性教育なんか受けてない世代だ。
 性というのは、なんだかヒソヒソ声で話すすごくいやらしいイケナイ、厳重まる秘の機密文書のようなものだと思って育った。
 ヤラシイいけない性のことにはさほど関心もなかったが、自分が女であることにはかなりのこだわりがあった。
 女というものは、「弟がしなくてもいいお手伝いをしなければいけない」「生理という恥ずかしいイヤなものがある」「結婚すると、とんでもなく苦労と我慢をしなければならないらしい」「子どもを産むのは死ぬほど痛いらしい」……女って、なんだかすごく損で暗そうで、自分が女であることが情けなかった。
 私は、自分の性を肯定できないまま大人になった。
 大人になって、たくさんいたボーイフレンドとも長くつき合った恋人とも「結婚だけはしたくなかった」私は、ひたすらファッションという仕事の世界に没頭していった。
 30代に入り仕事をしながら結婚、出産、離婚などと立て続けに経験した。
 そして「さあ、これから母子家庭で子育てという大役をこなさなけりゃ」となったあたりで、私は自分のそれまでの男との人間関係の結び方に、ある種の行き詰まりのようなものを感じ始めていた。「私のやり方、どっかおかしいゾ」という、漠とした気持ちがどうにも拭えなかった。
 私はたくさんのいい男たちと出会いいくつもの恋愛を体験したのに、なぜ一人のパートナーもいないんだろう? なんで独りぼっちなんだろう? 私はなんで男といい関係を育てようとしないんだろう?
 その原因が「性」にあることは、漠然とわかってはいた。それもセックスのやり方とことではなくて、性の在り方のことだろうという想像も充分についた。
 深く考えることもせずに恋愛をくり返し、結婚や出産や離婚まで体験したのに、私はどこかで自分の性を考えることをひたすら避けていた。自分の女という性を考えることは、なんだかとても恐かったのだ。
 それにしても、自分が「性」なんて考えないままに一生を終わるのはともかくとして、これから子どもを育てようというのに子どもにまで、いまだに私がどこかで引きずっている「ヤラシイいけない」という性に対する否定的な気持ちを繋げるのはまずいなあ……ということは、しきりに考えてはいた。
 その頃の私は、ジェンダーなんていう言葉もまだ知らなかった。

──モア・リポート班
 そんな時期に一つの出会いがあった。
 ある女性誌が日本全国の読者に、ハイト・リポートをたたき台にした長い記述式の性意識調査のアンケートを配布した。その膨大な調査結果を一年間に渡って誌上で展開していく、ライターの一員という仕事だった。
 私はその「モア・リポート班」という仕事場で、初めて性を一から学んだ。
 ファッションの仕事もしながら、子どもを育てながらという生活の中での、この仕事場での学びは私のほんものの血や肉になった。
 「あなたは、自分の体が好きですか?」から始まり、「性交時にオーガズムを得られますか? マスターベーションではどうですか?」「それは、なぜだと思いますか?」といった質問に、正直に切々とあるいは生き生きと書かれた莫大な数のアンケートの回答。
 そこからは、性を越えて恋愛や家族や健康や仕事や、モラルの在り方等が透けて見えた。
 日本の女たちのおかれた人間関係や家制度や社会状況が充分に語られ、その中でひたむきに生きる女たちの様子が、手に取るように伝わってきた。
 そうかァ、性を語るってことは生を語ることなんだ。性の在り方っていうのは、まさに生の在り方そのものなんだ。
 アンケートを読み込み分析し分類し、医者や作家やリブの活動家を交えてディスカッションをし、徹夜で記事を書いた。
 講演に行き映画を見、たくさんの女たちに出会い、その合間に本を読みあさった。ハイトやキンゼイやボストン女の健康の会のリポート、ウーマンズボディにメンズボディ、性の署名、性の深層、最後の植民地、性の政治学、フェミニズムの歴史……この時期に、私は性とフェミニズムの基礎を勉強した。
 それは、それまでやみくもに突っ走ってきた自分を捕らえ直し確認する作業でもあった。
 そして、私は、性を学ぶことによって初めて、自分なりの政治や社会に対するスタンスも持てたように思う。
 当然私のファッション観も変わっていった。

──性を学んでファッションが変わった
 今から考えると実に乱暴な話だとも思うのだが、それまでの私にはファッションは「絵の道具」に過ぎなかった。
 服を選びモデルやカメラマンをキャスティングし、撮影のアイデアを詰めていく作業は、美大を出てファッションの仕事に入っていった私には、エキサイティングな「絵」を造り上げていくゲームだった。
 いつも「今一番ホットな服は? 流行は? ニュースは?」とアンテナを張りめぐらし、「もっと斬新な、もっとエキセントリックな写真の撮り方は?」と考えていた。それが、私のファッションだった。
 しかし性を学んで、外見や見てくれだけで出来上がっていた私のファッションに、「身体」という視点がズンと入った。
 「身体が気持ちいいですか?」「あなたはそれを楽しんでいますか?」「気持ちよくないのに、なぜそれをするのですか?」という、セックスリポートの質問は、そのままファッションを見る眼にオーバーラップした。
 みんな、果たしてどれぐらい「身体が気持ちよく」「それを着ることを楽しんで」服を着ているのだろう?……女の人のストッキングや身体を締め付けるブラやガードルは、果たして身体が気持ちいいんだろうか? あるいは化粧やハイヒールは? サラリーマンたちのスーツは楽しいんだろうか? ビジネス街のOLたちは? 終電で出会うおミズのおねえさんたちは? パンチパーマがきつい光り物好きのおニイさんたちは? 制服の中学生は?
 「気持ちよくないのだったら、楽しめないのだったら、それなのにあなたはなぜそれを着るのですか?」……そこには、それぞれの人々がその服を選択するにいたった、様々な家族や職場の事情や人間関係があり、それはその人の等身大の社会や政治でもあった。
 身体を軸にすえてあらためて「着ること」を見回してみると、それまで気が付きもしなかったような疑問や考えもしなかった問題が、次々と見えてきた。
 そういう眼であらためてながめると、流行のテイストもブランドも、街も人も一枚の写真も、まったく違って見えてきた。
 「なぜ、そういうふうに着るの?」「なぜ、その服をチョイスしたの?」……人は、純粋に個人の好みや楽しみだけで「着ている」わけでは、決してなかった。人が服を着るということはまた、なんと多くの暗黙の約束事や制約に縛られていることだろう。
 ジェンダーの暗黙の決まり事のなかで、夫や妻や父や母という役割のなかで、あるいは若者とか学生とか未婚の女というくくりのなかで、それでも人は一生懸命服を着る。
 そして、その中で人はせいいっぱいの自己主張や自己表現をしている。楽しんだり、くつろいだり、夢を見たりもしている。
 そうか、ファッションって、「着ること」って、そういうことだったんだ。

──今、性教育は?
 それにしても性というのは人間が生きていくうえでの、なんという根源的な学習だろう。性のない人間なんていないのだ。(両方持っている人はいてもネ)
 つまらないジェンダーにとらわれないためにも、偏狭なモラルに縛られないためにも、自分を大切にして自分らしく生きるためにも……性を学ぶことは、絶対に人に必要な学習だと私は思う。
 今だに、「なぜ私は30才過ぎるまで、こんな大切な生きるための勉強を、どこからも誰からも学ばなかったのだろう?」という、素朴な疑問は残る。
 それにつけても、今の義務教育の中で「性教育」はどんな具合になっているのだろう?

『生活教育』ホーム ライブラリーのトップ 次の回へ