連載 ファッションとジェンダー/第6回(2000年9月号掲載)
制服が萎えさせるもの
宮谷史子 ファッションライター


 私は学校の制服をすべて否定するわけじゃない。でも人間が最も成長する大切な時期に、そんなにイージーに「着ること」を他者にあけ渡してしまって、「いいのかなあ?」という思いがどうしても拭えない。

──女子高生のオシャレな制服
 制服のことを書こうと、手元の「女子高生制服図鑑」を見たら93年版とある。
 あのころ、チェックのミニスカートとブレザーという新しいオシャレな女子高生の制服が増え始め、そんな女子高生たちをスナップして歩いた。もう7年前になるのかあ。
 当時は、それまでのぞろりとしたセーラー服やジャンパースカートに比べれば、新しい制服のほうがカジュアルで活動的で、「女の子たちの為にも、街の風景のためにも大変けっこうなことだワ」と、私は軽く考えていた。
 しかし取材して、「制服をオシャレにモデルチェンジしたら優秀な生徒が集まり偏差値が上がった」、「制服のデザインで高校を決める」、「替えスカートや替えシャツといったオプションも含めると、制服代だけで20万を越す」といった話を聞くうちに、なんかイヤーな気持ちになってきたのを覚えている。
 いくら少子化で生徒を集めるのが難しいとはいえ、私学の生き残りを賭けてとはいえ……オシャレな制服で子どもを集めるって、なんかちょっと違うんじゃないの? 学校も学校なら制服ごときに群がる生徒も生徒だ
 しかしその記事を書き終えたら、女子高生の制服のこともいつのまにか忘れてしまった。私も高校生の母親だったが、息子の学校は私服だったし身近に対象がいなかった。
 ところが、今回久しぶりに本屋で高校の入学案内の数々を前にして、私は驚いた。
 どれをとっても巻頭のカラーのページのかなりを制服紹介に当てている。替えシャツや替えスカートなどのオプションを持つタイプの制服も、7年前より確実に多くなっている。
 入学案内なのに「デザイナーズブランドが評判の制服はここ」「昔ながらのセーラー服タイプもやっぱり人気」「県立だって、こんなにオシャレ」、ファッション誌みたいなキャッチコピーがずらずら並んでたりする。
 デザイナーズ・ブランドは制服界の大御所モリハナエを筆頭に、トリイユキ、花井幸子、コシノヒロコにジュンコ、カンサイにあらまあ、ヨージまであるじゃないか。(この人たち、バブルがはじけてパリ・コレで派手なことが出来なくなったら、こんなところでちゃっかり手堅く稼いでたんだ)
 今やオプションなんてフツーのこと。何種類もあるオプションの組み合わせかたによっては、同じ学校の制服でもまったく違う学校の生徒に見えちゃうって……それ何? なら、始めっから私服にすりゃいいじゃない。
 モリハナエやトリイユキでそのオプションも豊富となれば、親の負担も大変だろうなあ。
 7年前にそのテの女子校に娘が入学した友達が「お洋服だけで17万ちょっと、それにカバンやら靴やら全部で23万ぐらい。オーバーなんて素晴らしい素材で私のよりずーっと立派よ。冬用のウールの替えシャツは家で手洗い出来ないから、いちいちクリーニングに出すの」と、ため息をついていたけど。
 今この受験案内のグラビア見る限り、その傾向がますます強まっているのは明らかだ。
 なんか、学校が子どもに変わって「ブランド競争」やってくれてるみたいね。
 カンサイが着たきゃヨージが着たきゃローラ・アシュレイが好きなら、自分で着りゃいいのに、なんで制服なんだろう?

──制服はなんのため?
 しかし、なんでこんなに子どもも親も学校も制服が好きなんだろう? 高校生なんて、一番オシャレに興味がある年頃なのに。
 親や学校の根強い制服賛成派の意見に、「非行防止」とか「オシャレ競争になって華美に走る」といったものがある。
 今どき、「制服が非行防止になる」なんて時代錯誤でのんきな意見の持ち主たちは、あの制服こそがオヤジと売春する時の重要な小道具である、女子高生のエンコーやウリという現実はどう説明するのだろう。
 非行(この言葉ももうカビが生えてるね)と服装は、本質的に問題の根っこが違う。
 それから、「オシャレ競争」は制服だろうと私服だろうと起こるべきものは起こる。現に制服のコギャルたちが、ブランドもの欲しさに売春までやってるじゃない。
 これも、制服私服とは無関係な問題だ。
 大人社会には、そこいらじゅうに「ブランド狂い」も「成金趣味」も「華美に走る人」もいっぱいいる。こういう社会の中で、制服さえ着せれば子どもたちを誘惑や見栄や虚栄から守れるとでもいうのだろうか。これだけ情報の発達した時代に。
 むしろ、大人になり始めた大きな子どもたちだからこそ、色々なものに慣れたり抵抗力をつけたりすることが大切だと思うけど。
 それに、私は本質的な意味で「子どもって力がある」と思うのよ。子ども何人かが集まれば、必ず知恵も価値観も何とおりも集まる。
 もちろん「ブランド狂い」も「見栄っ張り」もいるだろうが、「安物のユニクロを誰よりカッコヨク着る子」も、「誰も持ってないようなステキな服を、フリーマーケットで500円で探してくる子」も出てくるだろう。大人の社会だってそうなんだから。
 たくさんの価値観の中で、子どもたち自身が自分の「着ること」を探していけばいいのだ。
 子どもに「学生らしさ」といった妙な精神論で、見栄や虚栄や拝金主義なんかを封じたつもりになるのは、私には大人の過保護やセンチメンタリズムにしか思えないけどなあ。
 それから、制服というと「毎日着るモノに悩まなくてラクチンでいい」という、消極的な制服賛成派は子どもたちの中にも多い。
 これを聞くたびに私は少し哀しくなる。
 たかが毎日の「着ること」ぐらいに、なんでそんなにかまえて臆病になるのだろう。
 たぶん、小学校以来「着る訓練」してないから、着るのが「楽しい」前に恐いのね。失敗することがすごく恐いのね。
 でも15才くらいになったら、「自分が着るもののことくらい、自分で考えて決めなさいよ」って、私は言いたいね。
 着ることだってもちろん、たくさん失敗しなくちゃ上手にはならない。それでも、着ることはとても楽しい。
 なんにもしないうちから、型にはまって安心なんてするなよ。失敗を恐れて「ラクチンでいい」なんて言うなよナ。その若さで。

──公立中学の制服
 それにしても、そんな風に子どもたちを「着ること」に臆病にしてしまう、着ることを「自分で決めること」ではなくて「与えられること」だと思わせてしまう、最大の原因は公立中学の制服だろう。
 中学生という多感な子どもたちに、あの無個性な服を一様に着せることのどこに意味があるのか、私にはどうしてもわからない。
 第一、新陳代謝の激しい育ち盛りの子どもたちに毎日洗濯できない服を着せるなんて、すごく不潔で不衛生。
 おまけに、制服から体操着や上履きまでそろえると7万円近いという、この「たかが子どもの日常着」に対する親への金銭的負担はなんなの? しかも公立で。
 しかし、私が中学校の制服に一番腹が立つことは、子どもたちの「着る学習する権利」を奪っているということなんだなあ。
 自分が自分らしくあること、他人がその人らしくあること、自分と人が違うこと、違いを考えたり分かち合ったりする力……そういうことが「着る」ことの中にはたくさんある。そしてそれは生活の中で、身体や心で「学習する」ことでもある。
 オシャレ盛りの子どもたちが、自然にまかせておけばおそらくとても熱中するだろう、着る中にあるたくさんの「学習」をするチャンスを、制服は子どもたちから奪っている。
 何年もそんな眼で、あの中学校の制服が「いつになったらなくなるんだろう」と思い続けてきたが、いっこうになくなる気配がない。
 最近では私は、「あの中学校の制服ってのは、利権のからんだ教育界の『業界のモンダイ』であって、『政治』ってことなのネ」と、そういう結論に達してる。給食とか制服って一つの産業であり、つまりはすごくオイシイ利権なんだろうなあ。
 もうひとつは、「早いうちに個性や考える力といったやっかいなものを削ぎ、どこかで集団でくくられる訓練に慣らしておこう」という、この国の教育の思想かなあ。そういう意味では、個より集団、規律、服従……制服って管理の最強の小道具だよね。なにしろ、学校制服のルーツは軍隊だもの。
 大切な時期に、瑞々しい感性を徹底的に「隣と同じでなきゃ不安」「外れるのが恐い」と染める為には、制服は素晴らしい小道具だ。
 まったく、中学で痛めつけられたオシャレ心が、カワイイ制服で高校を選ぶってのは……解りすぎて痛々しい。
 しかし、着たり食べたりというごく日常の感覚が、こうして「自分を放棄する」方向に流れていってしまうことは、私にはけっこう恐いことに思えるけどなあ。

──制服が萎えさせるもの
 最近、街なかで制服のまま足を広げてパンツ丸見えで座ってる女子高生をよく見かける。必ず制服。それも何人かで群れている時。
 私はあれを初めて見たとき、すぐ職業的に「短いスカートの下にスパッツはいてるんじゃないか」と期待した。「短いミニにスパッツっていいねえ、オシャレ」ってね。
 で、よーくパンツが見える位置に移動してしっかり確かめたところ、スパッツなんかはいてない。オシャレでしてるんじゃなくて、ただ丸見えになってただけ。ツマンナイ。
 ただ見えちゃってるだけの下着のパンツなんて技もひねりもなさ過ぎて、男には嬉しかろうがオシャレ的にはまるでバツ。
 パンツ見た女子高生にはガンとばされたけど、しかしまあ、それにしてもこの無防備さ 幼い女の子でもあるまいし。
 それにしてもこの子たち、果たして私服でも街なかでパンツ丸見えで座るんだろうか?
 おそらく、私服では決してやらないだろう。
 少なくとも私は街なかで、ガングロでもヤマンバでももっと過激なファッションでも、ミニスカートから下着のパンツ丸見えで座っている女の子なんて、見たことがない。
 着てるものが過激であればあるほど女の子たちのガードは堅かったりして、私は「短いスカートはいてもじもじ内股で歩くな ちょっとぐらいパンツが見えたってなんだ もっと背中のばして大股で闊歩しないかい」と、激を飛ばしたくなるくらいなのだから。
 と、そこまで考えたとき……私は、この子たちは制服を着ることによって、「ある種の神経」が完全に弛緩してしまってるんだ……ということに気がついた。
 パンツ見せることが「はしたない」とかは、私は全然思わない。しかし、街なかという他者と交わる場所での、このある種の「神経の弛緩」は恐いと思う。
 それは、小さな子どもでもないのに年齢に不相応に自分の足で立とうとしない、ズルズルとした「弛み」のようなものにも見える。
 制服の弊害はいろいろあるが、一番恐いのは「自分の足で立つ」ことを萎えさせることかもしれない……などと、ふと思う。
 しかし、これは恐いなあ。

『生活教育』ホーム ライブラリーのトップ 次の回へ