連載 ファッションとジェンダー/第7回(2000年10月号掲載)
いい子の犯罪、ファッションから
宮谷史子 ファッションライター


 私はTVのニュース番組が好きだ。
 ニュースやドキュメンタリー番組の中には、まさにリアルタイムの生きたファッションが溢れている。
 いつも、どこかそんな風にTVを見ている私だが、最近TVの中ですごく引っかかってしまったファッションがある。

──バスジャック事件の彼
 先日、例のバスジャック事件の時犯人がTV画像にはっきりと映ってしまった瞬間があったが、私はバスの中の犯人の少年を見たとたん「あっ、またいい子ファッションだ」と、思わず叫んでしまった。
 その後何度となくその映像は流れ、犯人が未成年ということでボカシをかけていたが、それでも犯人のファッションの雰囲気はしっかりと読み取れた。
 染めてないパーマっ気のない横わけ風の髪。黒縁とでも呼びたいような昔風のメガネ。ポロでもTシャツでもない、コットンかなんかのYシャツ。ジーンズでもチノパンツでも若い子の好きなゆったりした半ズボンとも違う、学校の制服風の長ズボン。
 今どきの17才の男の子にしては珍しい、律儀で生真面目でPTAご推薦みたいな超平凡な服。完璧な「いい子風」ファッション。
 私、ここのところ青少年の犯罪が起きるたびにニュースの中で見かける犯人たちが、えてしてこの「いい子ファッション」なのが、とても気になってしかたがない。
 京都で小学生を殺して自分も自殺してしまった犯人が、防犯カメラに映った時も京都新聞だかがスクープしたときも、まさにこういう雰囲気の服の着方をしていた。
 バスジャック事件と前後して「人を殺してみたかった」という理由で、通り魔のように殺人を犯した高校生も、金属バットで後輩を殴り母親を殺して自転車で逃走した少年も、学校や近所で「いい子」でとおってたというからには、やっぱり「いい子らしい」ファッションをしていたのだろう。
 少年犯罪は犯人の顔を報道しないのが鉄則とはいえ、様々な事件の情報を組み合わせると、犯人がどんなファッションをしていたのかはだいたい想像ができる。
 「いい子」という評判の子が、「茶髪金髪にサングラス、ずり下げズボンにピアスが七つ」というファッションであるわけがない。
 逆に言えば今の日本の社会では学校や近所の眼なんて、金髪やピアス程度の外見と会ったら挨拶するかしないかぐらいのことで、「いい子」にも「悪い子」にもレッテルを張られるんじゃないだろうか。

──いい子ファッション
 学校や近所で評判の「いい子」の心の闇まではわからないが、そのファッションのことならば私にも想像がつく。
 例えばバスジャック事件の彼の服。今どきあそこまで現実離れした「超平凡な」若者好みでない服は、街のそこいらにある安売りのジーンズショップなんかで手に入る服じゃない。そういう服は、もう少し若者向けでカジュアルで安っぽい。
 おそらくこの子は、17才にもなって珍しく着ることにまったく関心がないままに、母親が買った服をそのまま素直に着てた子なんじゃないかと思う。
 「年頃だからって、誰もがオシャレにうつつを抜かすわけじゃない。母親の買う服を素直に着て何が悪い」という反論を承知で言うが、17才にもなってそれって、少しヘンだヨe そんな年にもなって着ることに少しも自立していないのは、自分の力で着ることを楽しんでいないのは、とても不自然だよ。
 今の時代に、少しでも子どもたちが「自分の力で着ることを楽しもう」と思ったら、母親の選んだ服なんて着るわけがない。
 別の言い方をすれば、17才にもなってすっぽりと「母親の価値観を着てる」なんて……それやっぱり、少しヘンだと思わない?
 服って、ファッションって、その人の価値観の現れでもあるんだからね。
 だいたい「楽しむ」ってことだって、ひとつの大人の能力でしょう?
 何も考えずに笑ったりはしゃいだりしている小さい子ならともかく、考えたり悩んだりしながらも「自分の力で楽しむ」ことが出来るのは、大人だからこそ持てる能力だよね。
 食べたり着たりに始まり、友達と遊んだりアニメを見たりタレントや異性に興味を持ったりしながら、子どもは「楽しむ力」もどんどんつけて成長していくわけでしょう。
 それなのに17才にもなって、自分の着ることすら楽しんでないって……とっても、きちんと生きてきたようにはみえないなぁ。
 若いきれいな身体を持つ大きな子どもたちにとって、自分に似合うものや好きな服を探す冒険や挑戦は、本来ならワクワクするような生活の中の大きな楽しみのはずなのに。

──コンピューターゲームと犯罪
 それにしても私は、もうしばらく前から青少年の犯罪の形がコンピューターゲームの形態に酷似してきたように思えて、ならない。
 神戸のサカキバラ事件の、一大ファンタジーともいえそうなストーリー性。
 様々な凶悪事件に見られる、ハンマーだのスタンガンだのという数種類の凶器を事前に揃えるメンタリティーは、まさに冒険の前の「武器の選択」を思わせる。
 「本当に人を殺してみたかった」とか、機長を殺してまで「本当に飛行機を操縦してみたかった」という、犯人たちの動機は呆気にとられるほど幼いが、たぶんその言葉は嘘じゃない。
 次々とゲームのステージを極めれば、最後は「本当に〜してみたかった」というところに行き着くのは、不思議ではない。
 それに、あのコンピューターゲームって妙なリアリティーがある。
 私は「バーチャファイター」なんてゲームを見てると、女の子のキャラが男に足蹴りされ悲鳴を上げてぶっ飛ぶたんびに、生理的にゾクゾクッとイヤーな気持ちになる。
 バリバリ打ちまくって敵をなぎ倒すのにも、やはり抵抗がある。ましてや、敵が血しぶきとともに倒れたりすると、「うー気色悪い」とギョッとしてしまう。
 そんな私の感性は、ファミコンで育った世代の息子には心底バカにされ、鼻白まれる。
 が、世の中をファミコン使用前と使用後に分ければ、使用前の私の感性にはシューティングゲームのバリバリは、どうにもついていけない。いちいち神経に引っかかる。
 つまり、あれにはいちいち神経に引っかかるぐらいの、リアリティがある。
 そんなことを考えるとき、犯人達の「本当に〜してみたかった」という言葉は、妙な説得力をおびる。
 ましてや、かれらがほとんどバーチャルの世界の中だけで感性や知性や心を育ててきた子どもたちだったとしたら……その「幼さ」は、なんだか痛々しくもある。
 もう7年ぐらい前になるが、取材でゲームセンターをはしごしたことがある。
 シュールで美しい大きなバーチャルの風景、スーパーカーのスピード、ファイトゲームのリアルさ……「子どもの悪所」でもあるゲーセンは、コインで遊べるファンタジーランドでもあった。
 が、ゲーセンそのものの良し悪しはともかくとして、どこのゲーセンにも群れていた別にワルにも不良にも見えない学校カバン片手のフツーの子どもたち(親や学校には内緒だろうが)のことは、とても気になった。
 明るい昼間から薄暗い室内の蛍光灯の下で、まだピンク色の頬をした子どもが独りで光る画面を相手に黙々とボタン操作に熱中している姿は、かなり不気味なことでもあった。
 そして、「もしかしたらこの子たちにとっては、ゲーセンこそが学校と塾通いに明け暮れる彼らの、唯一の息抜きの場なのかもしれない」とふと思った時、これは「かなり恐いことなんじゃないだろうか」と思った。
 バーチャルの明るい空も輝く海も、スリリングなレーシングカーもたくましいマッチョも……所詮それは、現実にはプラスティックのボタンとレバーにしか過ぎない。
 ボタンとレバーが、彼らにとって唯一の息抜きや快楽というのは……それって、ちょっと恐いものがある。
 あれはまだ神戸の事件が起こる前だったが、いつまでも心に引っかかる暗い予感だった。

──現実を楽しめない子どもたち
 それにしてもわからないのは、犯罪を起こす彼らがどうしてああも簡単に現実の自分の生活をリセットして、暗い殺人ゲームの主人公に身を投じてしまったのか……その、彼らの現実の感覚の希薄さなのね。
 彼らの現実の生活は、そんなに生きてる感覚が希薄だったんだろうか? そんなに手応えがなくて、楽しくなかったんだろうか?
 ……たぶん、楽しくなかったのね。
 彼らのファッションを見ていると、そんな気がしてならない。
 バスジャック事件の彼のファッションからも、京都の小学生殺人事件の彼の服装からも、彼らが「着ることを楽しんだ」形跡は見事なほどまったく感じられない。
 本当に、「この子たち若いのに、いったいなにを楽しみに生きてきたんだろう」っていうような、投げやりな服の着方をしている。
 私の眼にはこの服の着方は「いい子」というよりは、「あらゆるものへの関心」が欠落してしまったような、そして自分自身を放棄してしまったような、廻りに対して「不遜」なほどの捨てばちな印象を受ける。
 あれくらい、自分と同世代の嗜好をまったく無視していたら、おそらく同世代の人間とはうまくコミュニケーションを取れていなかったに違いない。
 男の子の友達も、ましてや女の子の友達なんていなかったんだろう。仲間と騒いだりケンカしたりしたこともなかったかもしれない。好きな女の子とおしゃべりしたり、デートしたこともなかったんだろうなぁ。
 そういう「生活の中の楽しみ」の主人公に、せめてもう少しなれていればよかったのにねぇ、と思う。
 せめてもう少しオシャレとか、してみればよかったのに。ちょっと髪を茶色くしてみるとか、だぶだぶの半ズボンで街を歩いてみるとか、なんでもいいから。
 そういう現実の生活の中の些細に見える楽しみに、もっと少しでもエネルギーを振り向けられれば、事態は違っていただろうに。
 オシャレなんてバカくさくて小さいことのようだが、これだっていちおう身体張って社会と向き合うことでもある。エネルギーだって、けっこういる。
 オシャレの冒険の敵は「学校」だの「近所の眼」だのと少しセコイが、きっちりやればその中にも「戦い」も「挑戦」も「ヒーロー」もあったのにね。

 犯罪を犯すいい子たちの心の闇はわからない。それでも、私には彼らがもう少し現実の自分を楽しんでいたら、バーチャルと現実の見極めにあんな幼さを示すこともなかったように思えてならない。
 そして、犯罪こそ犯さないがきっと日本中にいっぱいいるであろう「いい子ファッション」の子どもたちに……私はぜひ「いい子なんてやめちゃいな、ファッションだけでもいい子なんてやめちゃいな」と、大人として言ってあげたいと思う。

『生活教育』ホーム ライブラリーのトップ 次の回へ