連載 ファッションとジェンダー/第9回(2000年12月号掲載)
ダイエットとジェンダー
宮谷史子 ファッションライター


 先日シドニーオリンピック見ていて、なんかしみじみ「身体」を考えてしまった。
 健康でのびやかな身体は美しかったが、激しい食事管理やトレーニングで競技用に作り上げた身体は、見るからに息苦しかった。摂食障害に陥るスポーツ選手は多いと聞く。
 女の子たちもダイエットが好きだ。
 雑誌にはダイエット記事とエステの痩身コースの広告が氾濫し、ファミレスのメニューにもカロリーが表示され、薬屋の壁面のひとつはダイエット食品で埋まり、今やダイエットはひとつの宗教に近いとさえ思う。
 が、私はダイエットに関しては若い女の子たちに言いたい「思い」がある。

──オリンピックから
 オリンピック中継で、「わっ、この身体ってアブナイんじゃない」と心配になったのが、例によって女子のマラソンと体操。
 マラソンランナーは、タイムを上げる為に身体を絞るという。女子体操では、体重が何百グラムか増えただけで出来なくなる技があると聞く。それにしても、彼女たちの痩せかたは人間の身体のバランスとしては、かなり危険な域に入ってるんじゃなかろうか。
 拒食症のような身体で42キロも走ったり、胸も腰も発達してない子どもの体型のままでムーンサルトを決めたりするのを見ていると……「あのコたち、生理なんか止まっちゃってるんだろうなあ。あんなことしてて、後遺症は大丈夫なんだろうか」と心配になってしまうのは、私だけではないだろう。
 そこへいくと、TVというとタレントや芸能人の細い身体を見慣れた目に、「のびやかに成長した人間の身体って、本当にきれいだなあ」と久々に思わせてくれたのが、水泳やビーチバレーの選手たち。
 筋肉も脂肪もバランスよく付いていながら、無駄な贅肉がない。彼女たちの姿には、ファッション写真が逆立ちしても真似できない、媚びないクールなかっこよさがあった。
 大穴だったのが女子ソフトボールで、実はそれまでソフトボールチームをニュースで見かけるたびに、「わっ、太めー、カッコワル」なんて思ってた。ところが、毎日のように彼女たちの映像を眼にするうちに、「ユニフォームもなかなかカワイイ。がんばれ、がんばれ」と思うようになってしまった。
 そのうち、いつのまにかアメリカの選手なんかを見ては、「うーん、このたっぷりした半ズボンに大きめのお尻がなんとも健康的でカワイイ 日本の選手はちょっと細すぎだよ」なんて本気で思うしまつ。
 ファッションに関してはかなりラジカルな眼を自負する私だが、普段いかに「細い身体がカッコイイ」というファッション通年に洗脳されていたか、しみじみ反省させられた。
 ホント、人間の目なんて信用できない。
 「きれい」「かわいい」なんて概念や感覚は、ほんのちょっとしたきっかけや馴れで、コロッと180度変わってしまうものだ。
 これ、ダイエットを考える上での「希望の星」なんだけどねえ。

──きれいに服を着るということ
 そういえば、ソフトボール体型の女の子って巷にはいっぱいいるのに、TVや雑誌の中で「ファッショナブルな存在」として主役を張っている姿はあんまり見かけない。
 女の子たちがファッションのお手本にするファッションモデルや女優や歌手やタレントは、みーんなスリムな身体をしている。
 で、いつのまにか私たちの目はあのヤセ体型がファッション的にフツーのように思い込み、多くの女の子たちが自分を太っていると思い込んでしまっている。
 しかし、あれは本当は全然フツーじゃない。
 たくさんの人に服を着せてきた私には、「服がああいう形に出る」身体がどういう身体だか、感覚的にわかるのだが……。
 つまり、9号サイズ(一般的に普通サイズとされていて、このサイズを基準にファッションは展開される)の服のシルエットがどこもつかえず突っ張らず、ゆとり分もそのままきれいに出る身体というのは、決してサイズ9の身体ではない。身体の形には、胸はあるけど肩がないとか、細いわりに肩が立派とか、それぞれに必ず癖があるからね。
 9号サイズが「きれいに着られる身体」というのは、9号よりかなり痩せ気味の身体でなければならない。
 モデルでなくシロートに服を着せる時に、一番神経を使うのもこの辺のことで、細身のメーカーの普通サイズは例え身体が入ってもゆとりがきれいに出ない。
 メーカーさんもその辺のことは百も承知で、いわゆる「シロート企画」には「うちの服がきれいに見えない。イメージが落ちる」と、服を貸してくれないところが多い。
 「きれいに見えない」ったって、「そのきれいに見えない服売りたいのはシロートさんだろうが」と、思うんだけどね。
 で、メーカーさんの好きな「服をきれいに着る」ファッションモデルの身体というのは、身長170センチ以上ある9号の身体なのだ。
 同じ「9号をきれいに着て」も、身長155センチの女の子と175センチの女の子では、どういう風に見えうるか……ここにファッションのトリックがある。
 「服がきれいに見える」って、そういうことなのだ。
 ちなみにファッションモデルの身体というのも自然な体型ではない。もともと長身で痩せ型の子が、体操選手並みのダイエットで作る人為的な体型であることが多い。
 もとの身体が胸も腰も日本人より厚みがある白人の、特にパリコレを舞台に活躍するトップモデルたちなんか、あれはほとんど10代の子の拒食体型だ。
 なぜファッションモデルたちがそれほど痩せた体型なのかというと、これはもうひとえに、「デザイナーの作品のディテールを損なうことなく、完璧に表現する為には身体は感じないほうがいい」という発想からきてる。
 美術品や芸術でなく生活の道具である筈の服が、そういう発想で作られること自体私は本当に、「ファッションってバカだ」と思うんだけど……とにかく、そうなのよ。
 プレタ(既製服)中心の今のファッション産業の主流は、「服はイメージで売る」というこのスタイルで流通している。
 そして、この拒食の子どもを身長だけ180センチに(パリコレモデルの平均身長)引き伸ばした身体こそが、既製服が全盛の今の時代のファッションの頂点に君臨する、「時代のミューズ」の身体なのだ。
 私は女の子たちに、こういう「時代の美」を鵜呑みにしてファッションに自分をなぞるような愚を、して欲しくない。

──女の子が痩せたい本当の理由
 女の子は、「痩せれば、今より美しくなれる」と信じている。
 しかし、女の子が今より美しくなりたいのは、なにも「ミス○○」や女優のように美しくになりたいからではない。多くの女の子たちの「痩せたい願望」はそれほど大それた、勢いのいい、前向きのものではない。
 もちろん、スリムになれば今よりもっと「きれいに服がきれる」だろう。
 11号や13号サイズの女の子は、9号にしかないもっとファッショナブルな服が着られるようになるだろう。
 友達からうらやましがられるだろう(なにしろ、友達もみんな痩せたがってるから)。
 ボーイフレンドやステキな恋人も出来るかもしれない。
 そして、今より少しでもヤセて美しくなれば、「もっと自分に自信が持てるようになれる」に違いない。
 この「自分に自信が持てるようになった」というのは、ダイエット成功者たちが口をそろえて言うお決まりのフレーズである。
 この気分は危険だ。
 多くの女の子の「痩せて美しくなりたい」理由の奥には、「ありのままの自分をどうにも肯定出来ない」気分が色濃く潜んでいる。「痩せたい」は、自分に対するコンプレックスの裏返しの願望でもあったりする。
 ここに、多くの女の子たちがダイエットから拒食にハマってしまう罠がある。
 そして、そんな漠然とした否定的な気分にさらに追い打ちをかけるのが、およそ女の子にとってこれほど残酷な言葉はない、「デブ」や「ブス」という言葉だろう。
 それは、女から外されることであり、一人前の女として見られなくなることであり、異性から恋愛の対象としては扱われないことであり……たぶん女の子にとっては、アイデンティティーや未来まで摘まれるような恐怖をともなう。
 小さい時から「嫁の貰い手」だの「売れ残り」だのと、どこか自分の性に売り物意識を引きずらざるを得ない女の子にとって、デブやブスは決定的な「欠陥品」の烙印になる。今の時代の「女の欠陥品」は、処女でないことなんかではなく、デブやブスのことだ。
 女の子たちは知っているのだ。
 いくら「人間は外見ではなくて中身だ」などときれい事を言ったところで……おしゃれもファッションも、9号サイズをきれいに着られる身体しか相手にはしてくれない。
 新入社員面接で、「メガネとブスはお断り」なんて文書を平然と人事部で回覧した会社が問題になったのなんか……ほんの氷山の一角だってことぐらい、女の子たちはよーくわかっている。
 会社の玄関受付に座るのも、氷河期の就職の面接で強いのも、タレントやモデルといったおいしい仕事がまわってくるのも、みんなきれいな子ばかりなのだ。
 女の子たちは、「女は外見の良さと若さで値踏みされる」「女は努力より容姿のほうがチャンスを引き寄せる」という、この社会の暗黙のルールをラジカルにかぎとっている。
 セクハラなんて言葉がある限り、女の子が自分がどんな風に値踏みされて男社会に受け入れられるのか……あるいは受け入れられないのか……本能的にわかるものだ。
 「受け入れられない女の子」の恐怖や絶望を考えずに、ダイエットは語れない。ダイエットの背景にあるのは、そういうことだ。

 拒食症の入り口はダイエットといわれる。この病気が圧倒的に女の子に多いのは……私には、貧しいジェンダーの有りようの毒がいかに深いかを、女の子たちが体現しているように思えてならない。
 しかしそれでも、私は女の子たちに「もっと本当の意味で知的になって欲しい」と、ファッションやってた者の一人として自戒を込めて願わずにはいられない。
 本当にちょっとしたことなんだけどねえ、少し勇気はいるかもしれないけど……。
 オリンピックのソフトボールチームと同じことなのよ。カチッとスイッチひねるみたいに、「美しい」とか「カッコイイ」とかのスイッチをちょっとひねって、自分や人間や身体や「着ること」を考えてみて欲しい。
 ヤセた身体だけが本当に美しいのか?
 ファッションの作り手たちの美意識や知性を、ファッション産業という仕組みの公害を疑ってみる必要はないのか?
 時代のミューズに毒はないのか?
 この社会の中で、女の子たちをそんなにも息苦しく「自分を肯定出来なく」させているものの、本当の正体は何なのか?
 ファッションにだって、ものごとを疑う勇気も、流されない知性も必要なんだよ。

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