連載 ファッションとジェンダー/第10回(2001年1月号掲載)
ブランドものの夢
宮谷史子 ファッションライター


 ブランドものは、オシャレの代名詞のようにいわれるが、それはちがう。
 オシャレほど千差万別なものもないわけで、安易なぴかぴかシャネルよりも個性的な500円の古着のほうがステキだったりするのが、ファッションのおもしろいところだ。
 ブランドもの批判は女性誌の中では絶対に出来ないが、私はずーっと「なぜ、そうも踊らされる!」「なぜ、そんなにブランド屋をもうけさせる!」と怒り続けてきた。

──女性誌に見る女の一生
 雑誌は多かれ少なかれ広告収入で成り立っているが、女性誌やファッション雑誌は出版社にとっては、広告料金の受け皿として存在している場合が多い。
 大抵の出版社では編集部よりも広告部のほうが権力を持ってるし、当然「広告規制」という厳しい自主規制コードがある。
 女性誌では化粧品やブランドものの、男の雑誌で車や酒の、家庭誌では家電や食品の悪口はタブーになっているものだ。
 ところで、女性誌というのは表向きはともかく、かなりはっきりと年代と役割別にターゲットを絞って作られているものだ。
 まずローティーン、ハイティーン、女子大生雑誌とあり、20代前半で徐々にOL向けと結婚待ち組向けに別れてくる。
 30代に入ると、はっきりと少数派の働く女向け雑誌と、多数派のヤングミセス雑誌に分かれる。
 一般に働く女雑誌のほうが雑誌の作りも値段もファッションも地味で質素、情報と実用中心。ミセス雑誌のほうがだんぜん紙も印刷もファッションも豪華で値段も高め。
 まるで、「女は自分で働くより、うまい結婚したほうがリッチでお得よ!」って感じ。
 おもしろいのはターゲットがミセスになったとたん、豪華で分厚い「リッチ奥様系」と、今夜のおかず満載で情報いっぱいの「おかず系」に、ぱっとわかれることなのね。
 「リッチ奥様系」は、頭からつま先まで100万円近いブランドものファッションに、海外旅行にレストランガイド。インテリアも生活雑貨もフランスやイタリアの高級ブランド。美容にエステにジュエリーいっぱい。
 おかず系は、「全身1万円台で仕上げました」風のファッションに、インテリアはもっぱら収納法。生活雑貨は「可愛い安物」と「お役立ちグッズ」中心。得意は体型のカバー術にダイエットに節約術といったところ。
 あーらら、ミセスの道は、ここらではっきりと分かれてしまうのかしら? まあ、かたや「女の夢」、かたや「女の現実」といったとこなのだろう。
 で、30も半ば過ぎるといつのまにか働く女雑誌はたち消えていて、ミセス雑誌が中心になり40代、50代と年代が高くなるにつれて、雑誌のメッセージのリッチ、ゴージャス度と良妻賢母度は増していく。
 現実にはこれだけ、パートや低賃金で働いている中高年の主婦や母親がたくさんいるというのに、女性誌の世界には良妻賢母でリッチなマダームしか存在しない。
 これ、ある意味ですっごく今の社会のたてまえや思い込みを表していると思わない?
 私には、そのまま今の男社会が良しとする、「理想の女の在り方」のように見えるよね。
 まあ女性誌といえど、作っている要のところにいるのは圧倒的に男たちだからね。

──リッチなコマダム雑誌
 それで、女性誌が現実の女たちからズレていようがそんなことはどうでもいいの。たかが雑誌、買わなきゃいいだけだからね。
 ところが、あきらかに有害なメッセージを発信している雑誌が売れて影響力を持ち、ひとつの社会現象や風潮を作っちゃったりすることがある。
 「コマダム」も、そうだろう。
 今回ブランドもののことを書こうと、コマダムの教組のような雑誌を買ってきた。
 この本は神戸の芦屋や港区の白銀台といった高級住宅地の、高級ブランドを身に付けた若い主婦をファッションリーダーに仕立てて、コマダムという風潮を作ってしまった。
 売れてるんだ!この本。一流の広告が巻頭から巻末までぎっしり入ってるし、紙質や印刷が立派なわりに値段も高くない。発行部数が伸びてる、勢いのいい雑誌なんだなあ。
 これ出してるの、昔ずいぶんお世話になった出版社で悪口は言いたくなかったが……ひどいんだよ、この本のメッセージは。
 「お姑さんに好感持たれる服」とか「山の手のお嬢さん風ミセス」とか、いい大人の女が媚びたりブリッコしたり……あるいは「ひかえめに」とか「さり気なく」といいながらも、常に廻りの女たちから一歩抜きんでることを提唱し……高級ブランドものまみれに、保守王道の「女の幸せは結婚の中にこそある」といったメッセージを歌い上げる。
 でもまあ上手な本でねえ、実に巧妙に女の人の生活感や虚栄心をすくい上げているともいえるの。ひとつの「女の夢」もね。
 で、今回も「上級パークカジュアルの着こなしには、プラダのバッグが便利」とか、「お友達とランチするときの、さり気ないシャネル」とか、相変わらずやっている。
 パークカジュアルの「パーク」は主婦が子ども遊ばせる近所の公園のことだし、「ランチする」「カフェする」と、ランチやカフェは完全に動詞になっちゃってる。
 プラダのバッグに、子どものよだれ拭きタオルやおしめつめて公園行けって? 女友達相手にそこらのイタメシ屋かなんかで、さり気なくシャネル見せびらかせって? ……イヤダナア、こういうファッション情報は。
 リッチに演出したくても、幼い子どもを持つ主婦の生活感を外すまいとすれば、そうならざるを得ないのはわかるけど。
 そういつも子どもを誰かに預けて、「お友達とランチ」や「ご主人と夜のデート」というわけにはいかないのもわかるけど。
 そりゃ、シャネルやプラダ持ってりゃ身に付けたくなる気持ちも分かるけど。
 それでも、この「ハレとケ」の強引なすりかえは、それをファッションリーダーだのオシャレ上級生だのと煽るやり方は……「有害情報」と言わざるをえないよなあ。
 確かに小さい子どもを育てている主婦って、オシャレの場に限らず自分自身の場も、とにかく「場」がないのだ。
 家の中か子どもがらみの公園や病院やスーパーばっかりで、そこで出会う人々も決まっていて、おまけに「○○ちゃんのママ」とか「○○さんの奥さん」としか言われない。
 「場」どころか自分自身の「顔」もない。
 これだけ高学歴の女が多い時代に、それまで固有名詞で呼ばれていた女たちが結婚したとたん、「場」も「顔」もなくなってしまう孤独や焦燥感を……そんな面倒なことには知らんぷりを決め込んで、「ご近所でさり気なく友達相手に、ブランドもので見栄張って発散しましょう!」ってわけか。
 とにかくこうして、このコマダム本に限らずこの手のミセス本は、子どもがらみの公園や稽古の送り迎えから学校やPTAまで、公然とオシャレの「場」にしてしまう(学校やPTAなんて、ギャラリーも多いし緊張感もあるすごいハレの場になってしまう)。
 こうして、まだ充分に若い女たちの行き所のないエネルギーは、子どもを錦の御旗にファッションから教育へと突っ走っていく。
 シャネルの向こうに、幼い子の尻を叩きお受験に奔走する母親の姿が見えてくる。
 本来なら自分自身に向けるべきエネルギーをするりと幼い子どもに託して、必死に自己実現しようとする母親の姿が見えてくる。
 そんなことを考えるとき……私ねえ、ブランドだらけのコマダム雑誌は、彼女たちの本来なら健康で前向きなエネルギーを、妙な方向にすくい取ってねじ曲げては、女たちを分断しているような気がしてならないのよ。
 ご主人の上司や目上の人に好感を持たれ、姑に気に入られ、せいぜい公園やPTAで隣とブランドもので見栄張り合ってる、いつまでもお嬢さんっぽい可愛い妻が便利なのは……いったい誰なのよ?
 少なくとも、女たち自身ではないのよ。

──音羽の事件
 ミセス雑誌のそんな風潮を考えるとき、どうしても音羽で起きた「春奈ちゃん殺人事件」のことを思い出さずにはいられない。
 音羽は田園調布や成城と並ぶ、学校の街に教育コマダムが集う地帯でもある。
 それにしても、「主婦という孤独なポジション」に、主婦が本当は孤独だったなんてことに、世間はあんな事件でもなかったら気がつきもしなかったんじゃないだろうか。
 だって、「主婦」という代名詞でひとくくりにされる女たちには、世間に対して「場」も「顔」もないのだから。
 ああいう陰惨な事件が主婦たちの中で起きたということに……私は、一見仲良さそうに群れていながら何も分かち合わない、何も連帯することのない、一人一人がバラバラの主婦たちの孤独の深さを見る思いがする。
 あの犯人は、幼い子どもを育てる重労働をこなしながら、夫や姑や近所の人たちに好感を持たれる妻をやりながら、「公園でさり気なくグッチやプラダ」の母親たちのなかで……その狂気にまで至った孤独地獄の息苦しさは、いかばかりだったろうと思う。
 そして、ふと加害者はもとより被害者も仲間の母親たちをも取り巻いてたに違いない、孤独と閉塞感の犯罪に至るほどのマイナスのベクトルの強烈さを、思う。
 あの事件には、多くの主婦や母親たちが犯人に深く同情したが、それは女には彼女の闇の暗さが見えたからに違いない。
 そんなことを考えるとき、さもリアルそうにリッチに砂糖菓子の「結婚の中の女の幸せ」を歌いあげる、コマダム雑誌の毒はあんがい深いような気がしてならない。
 というのも、皮肉にも音羽の事件はブランドもの満載のコマダム本の出版社と、まさに同じ町内の目と鼻の先で起こったのだ。
 これは、単なる偶然なんだろうか?
 私には、この偶然は女性誌の謳う「女の王道」の嘘や毒をまざまざと見せつける、啓示のように思えてならなかった。

──女性誌に望むこと
 女が強くなったって、主婦が行動的になったって、女性が社会に進出したって……ほんとうなんだろうか?
 そりゃあ一昔前よりは確かに、「旬」の若い女には様々な仕事への入り口が開かれただろう。女の管理職や重役も増えたかもしれない。共稼ぎや、男の育児もずっとポピュラーになってきたかもしれない
 しかし一方で、ブランドものまみれでカフェやランチが動詞になり、PTAが「ハレの場」になってしまう女たちがいて、それを煽る女性誌が多くの女たちに支持され売れているのも確かな現実なのだ。
 私は決して「結婚の中の女の幸せ」や「主婦」やあるいは、「ぜいたく」を、否定するわけではないのよ(まあ私の場合は、そのどれにもことごとく失敗組だとしてもネ)。
 ただ、もう少しニュートラルな感覚でやって欲しいと思うのよ。
 ブランドものなんていう安っぽい小道具で、薄っぺらな「結婚の中の女の幸せ」なんてのを、さもリアリティみたいな顔して煽って欲しくないのよ。特に、これからの若い女の子たちのことを考えるとね。
 女の雑誌なら、もっと本当の意味で女の人たちに優しくあるべきだと思うのよ。

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