連載 ファッションとジェンダー/第12回(2001年3月号掲載)
女の子たちに伝えたいこと
宮谷史子 ファッションライター


 私は、子どもが20歳を過ぎて子育ては一応終わった。
 が、今ここへきて「子育て」という視点とも違う、それでも、息子と同世代の若い女の子たちへ伝えたい思いが、私の中にたくさんあるような気がしている。

──学生たち
 それに気がついたのは、ここ数年続けた女子大のゲストスピーカーの仕事からだった。
 もともと人前でしゃべるのが苦手な私は初めその依頼を断ったが、年輩の女性の教授はなかなか聞き入れてくれなかった。
 しばらく押し問答が続き、「私はファッションの仕事を続けてきただけの者で、学生に話すことなんてないんです」と言い張る私に、教授はもの柔らかな優しい声で言った。
 「それでいいんです。私、あなたが教室にきて教壇に立ってくれるだけでいいの。
 私はね、学生たちに『いろんな大人がいる』ということを見せてやりたいだけなんです。
 大人といえば親と教師ぐらいしか知らない、受験競争の中を生き抜いてきた若い女の子たちに、『世の中には、こんなに様々な大人がいるんだよ。こんなにいろんな生き方があるんだよ』というモデルを見せてやることが、私の目的なんです」
 私は教授のその言葉にふと興味をそそられて、つい引き受けてしまった。
 大勢の前で話をすると思うと吐きそうな気分だったが、私はとにかく出かけていき70人ほどの学生たちを前に教壇に立ち、マイクの前で自分の仕事の話をしゃべり始めた。
 おそらくテーマが女の子なら誰でも興味があるファッションだったからだろう、学生たちは無駄話ひとつしないでしーんと私の話に集中している。そのあまりに真剣な眼差しを前にして、不思議と私の吐きそうな気分も肩の力も抜けていった。
 それにしても、彼女たちのこの真剣さはいったい何なんだろう? ふと、教授の「いろんな大人のモデル」という言葉を思い出した。
 その時は、エディターという仕事の内容や私がエディターになった経緯、あとは「着る楽しさ」「似合うということ」「コンプレックスはあなただけの特徴で、みがけば宝物になるよ」というようなことを話した。
 講義の後、学生たちは残って講義の感想文を書いてくれたが、それを読んで私はとてもびっくりした。
 どれもていねいな字でびっしりと書いてある。裏まで書いてあるのがたくさんあった。
 その多くに、「着ること」に関する悩みや迷いが書かれていた。
 「自分に似合うものがわからない」「私の着たい服と、母が私に着せたい服が違う」「流行に左右されたくないけど、回りから外れたくもない」……女子大生なんてもっと自信満々で、傲慢で、「若い女」を謳歌してるんだろうと私は思い込んでいたのに、この正直さ、揺れかた、自信のなさはどうだろう。
 「コンプレックスが宝物って聞いただけで、この授業に出てよかった」「もっと冒険してみようと、勇気が沸いてきた」「失敗してもいいんだと思ったら、すごく元気が出てきた」……たかがファッションぐらいで、なにをそんなに失敗や外れることを恐れるんだろう。こんなにも「失敗するのが恐い」「外れるのが恐い」って気分は、今の子に特有のものなんだろうか?
 流行やファッション情報とは別の角度から、「着る楽しさ」や「自由に着る」ことを自分に問いかけていけば、人は必ず「他人の中での自分の在り方」に気づかざるを得ないものだけど。
 多くのレポートにファッションを通り越して、親との軋轢、ボーイフレンドの眼、「若い女」という世間の目、仲間から少しでも外れることに怯える自分……「若い女」というくくりの中での、彼女たちの生きにくさや心模様がくっきりと透けて見えていた。
 そして、とても多かったのが私自身の生き方への興味だった。それはひとことで言えば、結婚からはみ出し仕事をしながら結婚の外で子どもを育てた私に対する、「えーっ、そういうのって、有りなんだァ」という、嬉々とした驚きのようなものだった。
 私は、確かファッションの話をしただけなのに、彼女たちは「生き方」のところで反応している。
 たぶん、彼女たちはある種の情報を渇望していて、語り合いたいのだ。それも彼女たちより大人の誰かと。でも、彼女たちの回りにはかっこうな相手がいないのだろう。
 「いろんな大人がいる。いろんな生き方があることを、学生たちに見せてやりたいんです」という教授の言葉がよみがえってきた。

──「ゼバスチアンからの電話」
 そんな学生たちとの出会いがあった後、私は「若い女の子」ということを、考えるともなく考えるようになった。
 息子の幼なじみのMちゃんやFちゃん、Aちゃんも20歳になったはずだけど、どうしているだろう? やっぱり誰かと語り合いたいんだろうか? それでも、回りに相手がいなかったりするんだろうか?
 それから「自分自身があれくらいの年頃のころどうだったか」ということも、しきりに考えていた。
 これは苦痛だった。私は、この年頃だったころの自分があんまり好きでない。記憶の中に封印して塗り込めてしまいたいような、痛くて辛い「思い」が多すぎた。
 私が20歳のころは、今よりもっと「女は受け身」で、「結婚が女の幸せ」で、「恋愛と結婚はなんの疑問もなくセットになってた」時代だった。
 「職業婦人」とか「婚前交渉」とか「傷モノ」なんてヘンな言葉はまかり通ってたが、「ジェンダー」も「自己実現」も「フェミニズム」も、言葉すら私のまわりにはなかった。
 母親の振りかざす旧弊な「女のモラル」と戦いながら、「女の役割」に何とか引き込もうとする恋人とはまた別の戦いをやって、親を騙して、男の子を引っかき回して、ワルぶって突っ張って突っ張って生きてきた。
 内心ではビクビク怯えて全身で身構えながらも、精一杯虚勢を張って背伸びして、独りで社会に飛び出していったあのころのことを……私はあんまり思い出したくはない。
 それでも、今あのころのことを考えると、あの痛みや辛さは「私が女だったこと」と深く関係があったのだ、ということがわかる。
 それは、私個人のキャラクターだけの問題だったのではなく、社会に出ていく若い女に共通の痛みでもあったのだということが……今なら、よくわかる。
 そんなことをしきりに考えるようになってから、私は青年前期がテーマの児童文学をよく手に取るようになった。
 私を教壇に立たせた教授が著明な児童文学者でもあり、彼女の児童文学を追究してきた女の人ならではのフェミニズムの視点に啓発されたせいでもあった。
 そして、そんな時に一冊の本と出会った。イリーナ・コルシュノフの「ゼバスチアンからの電話」という本だった。
 これは17歳の女の子ザビーネが初めての恋愛に夢中になり、何もかも忘れて恋人からの電話を待つだけの自分に、どうしようもなくいらだつ話だ。
 そんな状況から、ザビーネは友人や恋人や恋人の母親などに影響を受けつつ、徐々に恋人との対等な関係や、自分の将来やアイデンティティをつかみ取って成長していく。
 私は、「この本、17歳の時に読みたかったなあ。あのころこの本に出会えたら、どんなに救われただろう」とため息が出た。
 この本の中には、思春期のセックスのことや避妊のこと、家族のこと、伝統的な結婚の中の「女の役割」に生きる祖母や母親のこと、旧弊な女の役割を拒否しながらも初めての恋愛に飲み込まれていく不安、自分を自己実現する為の仕事を探す努力のこと、男と女がいい関係を生きるには対等でなければならないこと……などが、実にラジカルな視点で生き生きと語られている。
 そして何よりもステキなのは、「自分を信じなさい」「自分を大切にしなさい」そして「戦いなさい」という、著者である大人の女から若い女への優しいメッセージが、満ちあふれていることだった。
 後書きに、「息子のガールフレンドを見ていて、この本を書くことを思い立った」と書いてあったが、この視点は、今の私にはものすごく共感できたなあ。と同時に、いつのまにか私も「もらう側」でなく「わたす側」の年代になっていたことに気づかされた。
 これは母からではない。教師からでもない、年上の女が次の女へ渡すエールだった。
 女の子たちが大人になり社会へ出ていくとき、先に行った者が次に渡してやるべき、「女」というジェンダーを生きる人間に必要なメッセージでありエールだった。

──女の子に必要な情報
 私は、この国の「女の在り方」の選択肢はまだまだ狭くて貧しいと思っている。
 女の子たちの育てられ方も、まだまだそんなに変わっちゃあいない。
 最近も、私と同世代の母親から「女の子なんだから、大学で経済なんか勉強してもしかたがない」という言葉を聞いたが、こんなのは母親たちのフツーの常識だったりする。
 「それが嫁としてのつとめでしょう」「それが母親ってものなの」といったベトベトしたせりふいっぱいの、橋田寿賀子のドラマがゴールデンタイムで高視聴率を稼いでる。
 女の子たちは、どれだけ「女の子だから」と言われて育つことだろう。
 「女の子だから、なにもそこまでやらなくても」「女の子なんだから、門限を守りなさい」「女の子なんだから、間違いがあったら大変だ」etc、etc……。
 「女の子だから負けるんじゃない、あきらめたら女の恥よ」とか、「門限を守りたくなかったら、合気道と空手を習いなさい」とか、「間違ったっていいから何回でもやり直すのよ、ガッツよ! ファイトよ!」なんてことは、決して言われはしない。
 ましてや、「恋愛は素晴らしい。でも、自分のアイデンティティまでなくしてはダメ」とか、避妊のくわしい方法や、あるいは結婚や「子どもを持つ」ことに関してだって……どれだけ、感傷や欺瞞を交えないラジカルな情報が女の子たちに届いているんだろう。
 女の子には又、社会に出れば出たで、「セクハラ」だの「賃金格差」だのというジェンダーの差別という、男の子にはないハードルも待っている。そういう情報は心楽しくはないが、これからの女の子たちがより賢く戦うためには、正しく知る必要のある情報でもある。
 そう、恋愛にしろ結婚にしろ「子どもを持つ」にしろ仕事を持つにしろ、女の子だって「受け身」だけではどうしようもないのだ。
 女の子だって「自分を大切に生きる」ためには、どうしたって戦わなければならない。時に男の子以上に。しつこく、ねばり強く、賢く、「自分を信じて」「自信を持って」戦わなければならないのだ。
 そういうことを、今の社会の中では誰が女の子たちに伝えているのだろう。女の子たちは、誰からそういう情報やエールをもらえるのだろう。
 「失敗することが恐くて」、たかがファッションひとつ自分の思いのままに着られない女の子が、「私も冒険してみようと思う!」と顔を紅潮させて言うのを聞くとき……私にも、後から来る者にわたすべきものがあるような気がしてならない。
 そんなことをしきりに考えるこのごろだ。

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