タイトル

連載 ファッションの風影/第1回(2001年4月号掲載)
きもの、その美しい女のかたち
宮谷史子 ファッションライター

 正月、成人式、卒業式や謝恩会、梅春から春にかけて街が晴れ着で華やぐ。
 若い女の子たちにも振り袖は根強い人気があるようだが、きものというと洋服を知り尽くしたオシャレの達人たちがきものにハマっていくのも、私はたくさん見てきた。
 「きもの」という不思議な衣装が、なんでああも女の人たちを魅了するのか、私の興味はつきない。

──きものって服は……
 私もファッションを仕事にしてきた者だから、あの極限にシンプルな構造や洗練された美しい色や柄、着る人の個性にあわせていかようにも変化する着こなしの懐の深さなど、きものに感嘆しないわけではない。
 が、生活の中の衣服として考えたとき、値段、機能性、活動性、手入れすべてにおいて、あれぐらい現代の日常生活からかけ離れてしまった衣服もないと、しみじみ思う。
 実は私自身もその昔二十代のころ、きものに対する純粋な興味から、何度かきものにトライしたことがある。
 当時、痩せてるくせに肩も腰も骨格が立派な私はまずきもの体型を作るために、身体にタオルはおろかバスタオルをぐるぐる巻きにしなけりゃならなかった。(なんだか自分の体型を否定されたようで、不愉快だった)
 いざきものを着てみると、手の長い私には裄がつんつるてんで、手から風がスースー入って寒くてしょうがない。(冬だった)
 寒くて、窮屈で(きものとバスタオルが)、重い(帯が)うえ、鏡を冷静に見れば見るほど、それは実に私に似合わない衣装だった。なんというか、雰囲気が根本的に違うの。
 鏡の前で止まっていてさえ似合わない衣装は、動き出すと無惨だった。私の日常のしぐさや動きにことごとく造反した。
 苦しくても何も食べられない。椅子に寄りかかるのもベッドに寝そべるのもできないから、普段そんな姿勢ばかりの私は本も読めない事態になった。階段を降りようとして二階から一階まで転げ落ちそうになって、身の危険を感じた。ぼおっと正座してお茶飲んだら……もう何にもやることがなくなった。
 二時間ほどで、「よくもまあ、こんなものを着て生活する人間がいるもんだ!」と、ほうほうのていで私はきものを脱いだ。
 なにが「きものでお出かけ!」だ。どうやって駅の階段を死なずに駆け下りるんだ? 電車が混んだらどうやって踏ん張るんだ? バス追いかける時は? 食事は? トイレは?
 「フザケンジャネェ!」と毒づきながらも、一方で完全に容赦なくきものに拒否された気分でもあった。
 それでも何度か、帯の位置を工夫したり、男の気付け(男の気付けは女の気付けよりずっと楽なのよ)を真似たりして(まるでオカマになったけど、このほうが私には似合った)、きものにトライした記憶がある。
 そして何度目かの挑戦の後、体型、姿勢、動作、全てにおいて「私の身体はきものを受け付けない身体だ」という結論に至った。
 きもののほうでも、私なんかには絶対に着て欲しくないみたいだった。
 しかし、ここまで人間の身体の動きを拘束する服というのは、私には驚愕だった。
 まったくなんて服だろう! 身体、しぐさ、動き、行動まで、服が人間に「かたち」や「在り方」を強要してくるのだ。
 それは、いくら私が人一倍ガサツな人間だろうと、そういうレベルの話ではなかった。
 きものは私を「この下品なガサツ者、立ち居振る舞いの基礎も出来ないで!」と、ののしった。私は「たかが衣服のくせにエラそーに指図すんな! 誰がおまえなんか着てやるもんか」とワメいて、タンスから追放した。
 二十代の私は、こうしてきものと決裂した。

──きまりごとの美学……?
 私自身は決裂したとはいえ、仕事柄きものと出会うことは少なくなかったし、きものに関する本もよく読んだ。
 が、正直きものの撮影はかったるかった。
 プロの着付師とモデル使ってさえ、着せるだけで三倍から五倍時間がかかる。モデルにポーズ付けようにも、きもの着ちゃったモデルは決まった動き以外どうにも動けない。
 女の子の生き生きした「着る感性」や溌剌とした存在感を表現するには、まっことつまんないコスチュームだった。
 それでも、素晴らしい着付師に出会い「きものは、本来は『型』ではなくて、もっと自由なものなんだよ」ということを、仕事の中で教えてもらったこともあった。
 パーティーや忘年会などでひときわ目立つ、オシャレなきもの姿のスタイリストなんかもよく見かけた。
 が、きものって知れば知るほど私は以前にもましてなんだかわだかまりを抱くようになってしまった。
 きものって、なんとまあ多くのきまりや約束事で成り立っている衣だろう。
 「左前に着る」ぐらいは、私にもわかる。第一礼装は、未婚の女は振り袖で既婚の女は黒留め袖ぐらいまでも、まあわかる。
 しかし、「五つ紋は第一礼装で三つ紋は準礼装、じゃあ一つ紋は?」あたりから、がぜんわからなくなる。
 「大島はどんなに上等でも普段着」とか、「桜のきものに梅の帯はおかしい」とか、「カフェの女給さんが着るものを、お嬢さんが着るとおかしい」とかになると、「えっ、なんでー? いいじゃん」と思っちゃう。
 ところが、きもののオシャレというのはそういった様々な約束事の上に成り立っていて、それを外すととんでもないバツになる。
 バツもバツ! 「下品」とか「いなかモンが」とか「もの知らず」とか、あるいは「お里が知れる」とか、なんかもう生まれも育ちも教養まで否定されちゃう感じで、救いがたいバツさかげんなのよねえ。「まあ違うけど、それも有りか」ってのは、ないの。
 この、たかが着るモンのくせに徹底的に人を否定するような感じ、上から見下したような感じ、まるで人間に上下の関係があるような匂い……私、そういう「匂い」にカチンとくるんだなあ。
 だって例えばよ、桜のきものも梅の帯も持ってなかった水飲み百姓で着た切り雀だった私の曾、曾ばあさんは、なんで「桜のきものに梅の帯はヘン」を知ってたんだろう。
 「桜のきものに梅の帯はヘン」という情報は、その昔にどうやって私の曾曾ばあさんからやっぱり着た切り雀の曾ばあさんへ、そしてばあさんへ、私の母へと伝わるのだ?
 何も伝わらなかった私は、「わー春だ、桜のきものに梅の帯だ」と、ついでにあやめの羽織と薔薇のショールで嬉しげに歩く。
 と、そんな私を、どこかで「下品ねえ! 教養がないわねえ、お里が知れるわ」なんて見る人は見ていて……ね、例えばの話だけど、私きもののこういう感じが嫌いなのよ。
 中には「真冬も真夏も桜が好き」と、米寿の祝にも桜の振り袖を着たという、故宇野千代さんみたいな人もいるけれどネ。
 でも、今でもきものの中にはこのテの感覚がしっかりと息づいている。
 でも考えてみれば、もともとがきものって身分や家柄や目上や目下といった、上下関係の濃い社会の中で育まれてきた衣装であり美意識なんだよねえ。

──美しい女の在り方って?
 きものはこのように、着る人の身分、未婚か既婚か、教養の程度までごていねいに体現してくれるが、また「女の在り方」という精神的な部分にも深く食い込んでくる。
 形容詞(ファッション用語といってもいいかも)ひとつとっても、きっちりと「女の在り方」が決まってるのよねえ。
 しとやか、おくゆかしい、といったところは女全般に。はんなり、華やいだ、楚々とした、は未婚の若い女用。粋な、しゃっきりした、きりりとした、といったところは既婚の女用。もろに男が女を性的に評価する響きが露骨な「小股の切れ上がった」とか「仇っぽい」ってのは、「おミズ」専用。
 スポーティーとかアクティブに該当する形容詞は、きものには見あたらない。エネルギッシュもパワフルもエキサイティングもない。
 どうも、能動的なヤツがないのね。
 そういえば、きものの形容詞って「受け身」で、それも男から見た女の評価がそのままきものの誉め言葉になっているのが多い。
 しかしねえ……たとえ忙しく立ち働いていても汗も疲れも気取られないように「しゃっきりして」、暑くても涼しい顔で「粋」にかまえて、それでいて「しとやか」なんて……ホントごくろうさん、カンベンしてほしいよ。
 それが「いい女」なんて、それが粋で色気で女気なんて……冗談じゃないワ。
 私には、そんな女が「いい女」だなんてとうてい思えない。むしろ、人目ばかり気にしてる「猫っかぶり」で「見栄っ張り」の、どっちかって言うとヤナ女に見えるけどなあ。
 そうか、たぶんここが、私がきものと深く決裂しちゃった一番の原因なのね。
 でも、とにかくきものの中には美という鎖でもって、いまだにそういう「女の在り方」が色濃く息づいていることは確かだ。
 で、それはこの国が延々と造り上げ守り続けてきた、この国の容認する「お墨付きの好ましい女のかたち」でもあるのだろうなあ。

──平成娘のきもの姿は……
 私のフクザツな思いをよそに、平成の二十歳の女の子たちは、実にのびやかに屈託なく振り袖姿で街を歩いている。
 頭が小さく背が高く足が長い平成の女の子は、いくら帯を下に結んでもとにかく下半身が長い。「きもの姿」というプロポーションを、完全に変えてしまったね。
 「きもの通」から見れば噴飯もののワインレッドやダークグリーンの濃い色のきものも金銀ど派手な帯も、和装の常識とは縁遠い高々と結い上げた派手な金髪も、きものへの冒涜みたいなくどい色の長い爪も……あれはあれで、私には「きものの美」とはぜんぜん別物の、ポップでキッチュなカワイイきもの姿に見える。
 しとやかでも、奥ゆかしくも、はんなりでもないけど、だから何だって言うのよねえ!
 もしかしたら、このコたちこそが新しい「きものの美」や「美しい女の在り方」も、造っていくのかもしれないのだ。
 あのコたちだって、「きものが好き」な気持ちに変わりはないのだから。
 だからこそ、綺麗なきもの着たら嬉しくて……そりゃ写真も撮るし、成人式みたいなイベントはいっくら無意味だろうが退屈だろうが、アホが騒ごうが、ちゃんと区なり市なりがやってくれないと「格好がつかなくて困っちゃう」ってもんよね。
 だってお金かかってんだもんネ、この日の「おこしらえ」には(レンタルとはいえ、振り袖に帯に肌着から小物まで、気付けやヘアメイクまで入れたら、軽く見積もっても十万仕事なのよ、あの装い)。
 そりゃ、めいっぱいいろいろやって、モトとんなきゃねェ。
 と、そんなこと考えながら歩いていたら……こってり金髪結い上げて、すらりと長いきもの姿から堂々と厚底ブーツのぞかせて、片手にケータイ片手に男の子引き連れて、胸張って歩く平成のバービードールみたいな振り袖娘にすれ違った。
 私、思わずクスッと笑ってしまいながらも、「おー、おー、ガンバレよ!」と、平成のバービードールにそっとつぶやいた。

著者近影
この号に掲載された「著者近影」

『生活教育』ホーム ライブラリーのトップ 次の回へ