タイトル

連載 ファッションの風影/第2回(2001年5月号掲載)
制服の国
宮谷史子 ファッションライター

 春はフレッシャーズ(ファッション用語で新入社員をいう)の季節だ。
 フレッシャーズのリクルートスーツもつまんない服だが、その後に延々と続く「サラリーマンの服」も、これまた「ドブネズミ」って言うぐらいツマンナイ。
 街でリクルートスーツの若者たちを見るたびに、私は「そんなにイージーにその服を着ることを選んでしまっていいの?」という思いが拭えない。

──リクルートスーツ
 過去に何度もフレッシャーズ特集をやったが、「白いYシャツにグレイのスーツに靴もバッグも地味な黒」というほとんど制服みたいなファッションをやりながら、私はいつも不思議だった。
 新入社員の服で大切な、「きちんとした印象」や「人に好感を持たれる」といったツボさえ押さえれば、世の中にはごまんと服があるというのに、なぜこうも制服みたいなワンパターンになってしまうんだろう?
 タータンチェックのスーツでは「きちんとして」ないんだろうか?
 水色のブレザーに白いスカートでは「好感を持たれない」んだろうか?
 たぶん、この「好感を持たれる」ってところがミソで……人事部のオジサンから配属さきのお局OLにまでまんべんなく「好感持たれる」為には、こうも「人畜無害」を装わなけりゃってわけ?
 誰からも絶対に「生意気」って思われない為には、とにかく「出過ぎない、目立ちすぎない、無難が一番」というわけか?
 しかし、これじゃ「好感を持たれる」なんて通り越して、「私は絶対に自己主張も、生意気もしませんとも」という媚びに満ちた、ほとんど卑屈な装いじゃあないの
 ……と、いつもそんなことをブツクサ言いながら、やってたものだ。
 なにしろ若い子の服にしちゃあ、あんまりに超ツマンナイ服だったから。
 それにしても、あれだけ茶髪だ金髪だピアスだと元気いっぱいだった若者たちの着るエネルギーが、ある年代を境にパッタリと影をひそめるのを……私は、不思議なことだとは思っていた。
 「徐々に淘汰されて大人のファッションになる」というのではなく、ある年代を境にパタッと変わってしまうのよね。
 全ての若者がそうというわけではないが、この「リクルートスーツの年代」というのは、そんな意味で若者が大人に変わる大きなターニングポイントであることも確かだろう。
 それにしても、「たかが就職服に、そんなに媚びていいのかい?」という思いが、私はどうしても消せなかったなあ。
 だって今の若い子たちは、物心ついたときからファッションの中で育っている。
 「彼女とキメたい夜の服」だの「彼を振り向かせたいメイク」だのさんざんお勉強してきただろうに……就職や面接となると、いきなり右へならえで灰色の制服みたいなリクルートスーツってわけ?
 それでいいの? ホントに本当にいいの?
 なぜか、「はいたら最後、絶対に脱げないで死ぬまで踊り続けた」という、おとぎ話の「赤い靴」を思い出す。
 一度着てしまうと、もう脱ぎたくても脱げない服かもしれないよ、その服。

──サラリーマンの服
 サラリーマンの服は、灰色の制服みたいでつまらない。
 三十代から五十代にかけての働き盛り、男盛り、最も旬の人たちのはずなのに、どうひいき目に見てもツマンナイ。
 仕事で何度も丸の内や大手町で外国人ビジネスマンをスナップ(街を見張ってて、ステキな人を写真取材すること)したことがある。
 一言で外国人ビジネスマンといっても色々だが、概して彼らのスーツ姿は日本人サラリーマンのそれより、「柔らかい感じ」がしたものだ。
 少なくとも「ドブネズミ」という感じではなかったのは、グリーンやイエローなど色を使ったり、タイやチーフで遊んだりというテクニックのせいや、堂々たる姿勢や白い肌という身体の違いのせいだけではあるまい……と、ずっと思っていた。
 後に外国人ビジネスマンたちにインタビューする機会があり、彼らの9 to 5という働きかたや、仕事とプライベートとの間にきっちりと一線を引く生きる姿勢の話をじっくりと聞くうちに……この、かねてから不思議だった、彼らの着るものににじみ出る「柔らかさ」の謎が解けたものだ。
 口をそろえて彼らは、退社後も当然のように残業し、その後また「つき合い」で夜中まで過ごす日本のサラリーマン社会の働きかたに、悲鳴をあげていた。
「夜中まで飲んでたら、次の日の午前中は使い物にならないに決まってる。で、また残業。僕たちから見ると、なんてダラダラと効率の悪い働きかただろうと思うよ。会社、会社で、プライベートなんてない。日本人サラリーマンは会社が家族ね。彼らのこと『会社の猫』って言うんだよ。家の猫じゃなくてね」
 そんなこと言ってたアメリカ人の男もいたっけね。
 なーるほど
 遠距離通勤と残業に疲れ果て、「メシ、フロ、ネル」しか口に出来ない。日曜日には、パジャマでごろ寝が精一杯の日本のサラリーマンたちに、どうして「着ることを楽しむ」なんてゆとりがあるだろう。
 彼らがドブネズミになるのは、体型的にスーツが似合わないからじゃないんだ。オシャレのセンスが悪いからでもないんだ。
 彼らの働きかた、あるいは働かされかたにモンダイがあったんだ
 それにしても、サラリーマンたちって電車の中や街で一人一人が個人の時は存在感がないのに、飲み屋やオフィス街で何人か群れて集団になったとたん、がぜん「オレたち、サラリーマンだぞう」って、威圧的なほどの存在感を発揮するのはなぜだろう?
 これ、サラリーマンに限らず主婦たちがまさにそうなんだけど、一人の時はファッション的にも全然目立たないのに、何人か群れたとたんに「あたしたち、主婦以外のなにものでもないワ」という、回りをたじたじとさせるほどの強烈なパワーを発揮する。
 たかがファッションのことではあるが、この辺の「個では主張しないが、群れると主張する」というファッションは、いかなる性格のものなんだろう?
 オシャレにも、「自立してる、してない」ってのがあるんだろうか?
 とにかく誰もが、みんな同じ方向を向いていることだけは……確かだわね。なんかこれ「制服」っぽいねえ。

──「自由に着る」って?
 最近「二人は最高、ダーマ&グレッグ」(土曜日の夜中にNHKでやってる)というTVドラマがおもしろい。
 スーパーモデル並みの身長にグラマーなナイスボディ、身体も心ものびのび大らかなヒッピー娘(ヒッピー二世なの、このコ)のダーマと、金持ち階級でエリートコースを駆け上り、職業は検事という筋金入りのお坊っちゃんのグレッグ、この若いカップルの他愛もないドタバタドラマだ。
 ところが若いカップルにからむ舅、姑がかたや筋金入りの中年ヒッピー、かたや上流階級のバリバリのスノッブなわけで、この中年パワーが主役を喰うぐらいファッションも存在感も輝いている。
 禿げ上がった頭のポニーテールにジーンズのダーマ父さんと、中年体型にカーリーヘアーにビーズの首飾りじゃらじゃらのダーマ母さんの、古き良き(?)ヒッピースタイル。
 ビジネスマンのOB然としたオールドアイビー風のグレッグのパパ。自宅でお茶飲むときも、仕立てのいいスーツにぴしっとハイヒールのマダム路線をくずさないグレッグママ。
 私は特にグレッグママの、「ええいお下がり この高級ブランド固めが見えぬか」風のスノッブファッションがお気に入りで、ワッハッハッと見ていて突然気がついた。
 これもしかして、日本中の女たちが大好きな「ブランドもの」ファッションじゃないの、私の一番苦手な
 ところが、気取り屋で俗物なくせに素っ頓狂で気のいいグレッグママの「ブランド固め」は、なんともチャーミング。
 そうなんだよね、ブランドとかヒッピーとかファッションのディテールなんて、その人の輝きの前では些末なことなんだよ。
 このドラマには、中年ヒッピーに実業家に若いキュートなカップル、お堅い検事にミュージシャンに占い師……本当に様々な年齢の、様々な人々の輝きがある。
 そうかー、いろいろいるから、在り方が一様じゃないから、みんな違うから……それぞれのファッションも生きてくるのよね。
 それにしても、登場人物の誰もがいかにも「らしくて」、つくづく「ファッションってその人の価値観がよく表れるものだなあ」と思わせられる。
 ファッションに多様性があるってことは、生き方や価値観にも多様性があるってことなんだよね。
 それにしても、少なくともこの個性の対比をストレートに笑えるぐらいには、受け手の感覚の中にも価値観の多様性があるわけだ。
 そう考えると、日本のドラマって人間をファッションも役どころも紋切り型に決めつけていて、ツマンナイねえ。
 これはドラマだけでなく、ファッションだけではなく、「人間の生き方のモンダイ」なんだろうなあ。

──制服の国
 そしてまた、昨日まで茶髪をバンダナで結びジーンズだった若者達が、大人になるといともあっさりとリクルートスーツという灰色の制服に取り込まれていく、この国のファッションのことを考える。
 大人の男たちの服が「サラリーマンという灰色の制服」にしか見えない、大人の女たちが「グループから浮かないように」細心の注意を払ってオシャレする、この国のファッションのことを考える。
 そんなとき、この国の若者たちが自己主張や自己表現を学ぶ一番大切な思春期に、ずっと着せられる「中学校の制服」のことを思わずにはいられない。
 「個性は人それぞれで、生き方は多様だ」という発想も、「多様だから人間っておもしろいんだ」という視点も決定的にない……制服のことを考えずにいられない。
 若者たちはもうすでに、「慣らされて」しまってるんだろうなあ。
 だからきっと、「自由にやってごらん」と言われるよりは、「隣や回りと合わせなさい」と言われるほうが、安心で心地いいんだろう。彼らが一番安心できる服は、本当は制服なのかもしれないね。
 だからあんなに、大人の入り口に差しかかったとたんに、まるでそれがあたかも「社会を生きる為のパスポート」でもあるかのように、着る自由も若さも冒険もスルリと脱ぎ捨てて……安心な制服に戻っていくのかもしれない。
 この国って、もしかしたら「制服の国」なのかもしれないね。
 ところで、彼らがリクルートスーツと引き替えに明け渡したものの大きさに気がつくのは、二十年後だろうか?
 それとも三十年後だろうか?

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