タイトル

連載 今という時代に/第回(2002年10月号掲載)
子どもと絵本の世界
宮谷史子 ファッションライター

 昔から一度、子育ての中での絵本の意味を考えてみたいと、思ってはいた。

 私の子どもはもうとうに大人になって自分の世界を生きているが、私はもの凄く子どもに絵本を読んでやる母親だったのだ。

 で、時に「私があんなにたくさん読んでやった絵本の世界は、今ヤツのなかではどういうことになっているのだろう?」と、考えたりすることもある。

 これはまったく???謎である

──真夜中の絵本タイム

 私は、子どもが言葉をしゃべり始めるころから、絵本を読んでやった。

 仕事柄、夜の帰りが遅くどうしても子どもといっしょに過ごせるのは、ベッドに並んで絵本を読むぐらいしかない時間帯になる。

 始めは、たまたま家にあった「熊のパディントン」なんかを読んでやった。

 話の筋もわからぬままにお話に聞き入っては、回らぬ舌で「ブトン(パディントン)ちゃん」「アイチキリーム(アイスクリーム)」「メゲ(メガネ)」などと、自分のわかる絵を指さしていた。

 この絵本の時間はたいそう「お気に入り」で、ずっと続いた。幼児になっても子どもになっても、いつもガチャガチャと落ち着きのない子どもが、寝る前のひととき異常なほどの集中力で絵本の世界に没頭した。

 一応の約束は「3冊ね」だったが、だいたい5冊から7冊くらい毎晩読まされた。

 夜遅く帰る母親を待って、いっしょにお風呂に入り(2度目の)、夜食を作ってもらって食べ、それから絵本を読んでもらってから寝る……これが、小学校2年生ぐらいまで続く、毎晩の子どものお休み前の儀式だった。

 お風呂、お夜食、絵本のフルコースのために、昼間さんざん暴れた小さい子どもが夜中の12時過ぎまで、船をこぎながら私を待っていることもしょっちゅうだった。

 このフルコースは、子どもにとってとても大切な時間のようだったが、そのハイライトが絵本の世界だったように思う。

 いっしょに暮らしていた祖父母が、「ママは働いて疲れてるんだから、今日はもうおしまい 3冊読んだでしょう」などと言おうものなら、半泣きになって「もうひとつだけ もうひとつだけ」と食い下がる。

 そんな子どもの様子を見ていると、私もつい「よーし、今度はどれだ」と、ガンバってしまう。基本的に接触時間の少ない親子だったから、私もけっこうこの夜中の絵本タイムを楽しんでいた。

 絵本を読んでやる時間は私が子どもと共有する大切な時間であり、絵本はまさに生活の中の重要な小道具だった。

 だから私はことあるごとに、子どもにずいぶんたくさんの絵本を買ってやった。大きな本棚の3段分ぐらいを子どもの絵本が占めていた。

 毎晩、「ママ、今日はこれとこれとこれだよ」と本の題名を言いながら、まだ字の読めない子どもが正確にその絵本を、本棚から抜き取って持ってくる。

 背表紙の色と大きさだけで、ピタリと本を選り分けるその様子を見ていると、子どものその絵本への思い入れを見るような気がしたものだ。

──大人がおもしろく読めるもの

 そんな日常の中で、私が子どもに絵本を選んでやる基準は一つ。いたってシンプル。

 「自分が読んで、おもしろいもの」

 こっちだって、昼間から夜遅くまで神経すり減らすような仕事で飛び回っているのだ。いくら子どものためとはいえ、つまらない本を読んでやる根気も気力も、とうになくなっている時間帯でもある。

 だから、始めは私自身の好みで絵本を選んだ。たぶん始めは、私は「絵」から絵本に入っていったように思う。

 自分が大学のデザイン科でイラストレーションを専攻していたので、絵本売り場(青山のクレヨンハウスが多かった)に立っただけで、なんだかワクワクしたものだ。

 絵本は、特に外国の翻訳絵本は、素晴らしいイラストレーションの宝庫だったから。 

 そんな風に私が選んでいるうちに、だんだんと子どもの好みが見えてくる。

 何度も繰り返し「読んで」とせがまれる本と作家が見えてくる。で、今度はその作家の別の本を買ってやる。

 トミー・ウンゲラー、モーリス・センダック、ジョン・バーニンガム、レイモンド・ブリッグス、アーノルド・ローベルといったところが、特に子どものお気に入りだったし、私も何回同じものを読まされても苦にならず、読むたびにおもしろかった絵本だ。

 「なぜだろう?」というのは、よく考えた。

 たぶん、こういった作家達の絵本のなかには、「子ども向け」あるいは「子どもなら、こんなもんでよかろう」といった、子どもをなめた発想が一切なかったからではないだろうか。

 なんていうのかな……絵本だけれど、どの本にもきちんと「毒」があった。

 「毒」という言い方が的を得ているかどうかわからないが、そこにはきちんと人間の影も闇も書き込まれていたと思うのだ。

 つまり、人間が生きる上であまりハッピーではない心、例えば反抗や嘘や哀しみや怒り、あるいは孤独や老いや死といったことまで……きちんと書き込まれていた。

 その嘘っぽくなさが、大人が繰り返し読んでも飽きない、絵本の手応えや存在感になってたんじゃないかなあ。

 「人間が本気で生きる姿を、子どもに手加減せず隠さずに語る姿勢」とでも言ったらいいだろうか。

 センダックの本は、子どもが本当に小さいときから特に「かいじゅうもの」が好きで、どこへ行くにも持ち歩く気に入りかただった。

 この人の本のカラッと乾いた感じ、突き抜けた空想力のようなものが子どもを無条件に虜にするのは、私にもよくわかった。

 トミーウンゲラーの絵本の主人公は、とんでもなく反抗的だったり、暴力的だったり、人なんか平気で食っちゃう鬼だったりする。それでも、彼らが他人との関わりのなかで情が生まれ、人を愛し、優しくなり……そんな、人間くさい話が多い。

 ジョンバーニンガムは、優しい絵と分かり易い言葉で、さり気なく人間の孤独や老いや死まできっちりと、子どもに語る。

 レイモンド・ブリッグスの「寒がりやのサンタ」は、少し頑固な初老の男の独身生活の心のひだをていねいに見せたステキな本で、子どもの大のお気に入りだった(私の子どもは、おじいちゃんっ子だったから)。

 特に「サンタの夏休み」は、何回読んだかわからないほどの、子どもが一番大好きな絵本だった。

 夏のバカンスに、ラスベガスの「ホテル、ネロ」なんて俗っぽいホテルに泊まり、プールサイドでビキニのお姉さんから飲み物を受け取り、ポテトフライにケチャップどばどばかけて、ディナーショー見ながらうたた寝する……なんとも人間くさい、俗っぽいサンタクロースの話。

 大人になってから息子にこの本のことを聞いてみたら、「あれ大好きだったなあ。サンタクロースらしくないところが、凄くいいんだよね」と、言っていた。

 ふーん、小さい子でも「らしくないからいい」なんて感性も、あるんだなあ。

 そういえば、私の買ってやった絵本のなかには、あんまり「いい子」が出てこなかったなあ。いかにも「〜らしい」ってのも、なんか徹底的に出てこなかったような気がする。

──子ども向けって?

 それにしても、私は絵本に限らず「子ども向け」といった発想がどうも嫌いだった。

 よく、「子どもには、わざわざ世の中や人間の暗い部分や汚い部分は見せたくない」といった声を聞くが、私にはその姿勢は嘘っぽく感じた。子どもって、どんなに幼くても知性も理性もそれなりにある。子どもをなめてはいけない……と思ってたようなところがある。

 だから、私は徹底的にその逆をいった。

 かなり幼いときから丸木俊・位里のシリーズや、戦争の本なども平気で見せた。

 おもしろかったのは「みなまた海のこえ」で、素晴らしい絵と「しゅうりりえんえん」という音の響きに魅せられて、3才ぐらいまでは子どもの大好きな絵本だった。

 それがある時、絵本の語る本当の意味がわかったとたんに、ピタッと「読んで」と手に取らなくなった。

 これには、改めて子どもって4才なら4才の頭でかなりきっちりと現実を捕らえるし、把握するものだなあ……と、思ったものだ。

 4才でも5才でも、「みなまた」の公害のことも、「風が吹くとき」の核戦争のことも、「おきなわ島の声」の沖縄戦のことも……的確な情報を与えれば、子どもはちゃんと理解する。

 といって、なにも別に「沖縄戦」やら「みなまた」ばかり与えたわけではないが、絵や話がよければかなり幼いときから平気で子どもの本の中に、そういうものも突っ込んでいたということだ。

 「いやなことでも、ちゃんと見なきゃならないこともあるんだよ」というわけ。

 それに、きちんと現実を見て把握して強くなってもらわなければならない、個人的なちょっとした子育ての事情もあった。

 なにしろ、私は子どもが1才になる前に離婚していたので、子どもは始めから「父親のいない子ども」だったのだ。

 そんなことに妙なコンプレックスを持たないためにも、現実は真っ正面からきちんと把握して、それに勝ってもらわなくては困るのだ。

 あんまりハッピーではない現実も、後ろ向きに逃げないできちんと把握する姿勢は、そういう事情のもとに生まれた子どもには絶対に必要な、生きる姿勢でもあった。そして又この辺のことは、だいぶ絵本にも手伝ってもらった。

 外国の絵本のなかには、絵も文章も素晴らしい父子家庭や母子家庭の子どもが主人公の絵本は、けっこうあった。

 「朝、父さんに食事や服の世話をしてもらい、父さんと保育園へ行く。夕方、父さんがお迎えにきて、父さんがご飯作って洗濯物干す横で、遊ぶ」……こういった淡々としたラジカルさの絵本は、私が子どもに向き合っていた当時は、外国の本のなかにしか見あたらなかったけど、今はどうなんだろう?

 これだけ母子家庭や父子家庭が、当時より多くなった今だけど。

 でも案外この辺に、私が子どもに「子どもだから、辛いことや哀しいことは伏せて通ろう」と思わなかった……原点があるのかもしれない。

──絵本の世界

 先日、童話作家の女友だちと「子どもと絵本」の話をしていたら、彼女がこんなことを言った。

 「最近の若い母親って、子どもに絵本読み聞かせるよりビデオ見せちゃうのよねえ。

 お母さん達の集まりでしゃべったりするじゃない。『レオ・レオニのスイミーが』なんて言うと、すぐ『あっ、それビデオで見せました』とか、言うのよねえ」

 「でもさ、子どもって絵本読んでやってるとき『もー1回、もー1回』って、同じところを何回も読むようにせがんだり、それからこっちのページをめくる手を押さえて、じーっと絵のひとところを見入ってたりする……そういうのって、あるじゃない」

 「そうなのよ 大好きなところを、何度もいっしょになって口ずさむ……みたいなね。

 そういう『間』っていうか、子どもの心が果てしないほどの自分の空想や想像の世界を飛び回っている瞬間とかが、絵本の世界には確実にあるのよねえ。

 決して、ビデオを否定するわけじゃないけど、ビデオはいくら映像や音楽が素晴らしくても、出来上がったイメージを一方的に受け取るだけの世界よ。

 同じ『スイミー』でも、絵本とビデオでは私は全然違うものだと思うのよ。子どもの心が創り上げる『豊かさ』みたいなものが、本質的に違う気がしてならないの」

 「でもこういう『思い』は、今の若いお母さんたちには、なかなか伝わらないだろうねえ」

 と、私と彼女は言い合った。

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