タイトル

連載 今という時代に/第10回(2003年月号掲載)
廻る、廻るよ……流行雑感
宮谷史子 ファッションライター

 長いことファッションという仕事をしてきた私は、何年か前に出ては消えた同じテイストやアイテムが、また新しい流行として出てくるのを何回も見てきた。

 このサイクルは、年々早く目まぐるしくなってきているし、流行としてのネタは細かくなり、小出しになってきている。

 おそらく、世の中の情報化が進めば進むほど、流行という情報の提供料とネタが正比例しなくなり、近間の過去を思いっきり漁りつくしているのだろう。

 だから、さほど昔でもないものまでリバイバルしたりリメイクしたり、ちょっと俯瞰で見れば今の流行は恐ろしくぐるぐると目まぐるしいものになっている。

 そして私は、今では完全に「流行とは、この資本主義社会のなかで、『人々にいかにいらないものを買わせるか』という仕掛けに過ぎない」という結論に達した。

 それでも、「気分」としての流行は楽しい。

 「今年はきれいな色が流行る」とか「寒くなったら、暖かい毛糸の帽子が流行ってる」なんていうニュースは、生活を楽しくするエッセンスでもある。

 流行についての思いなどを、コラージュしてみた。

──若さという恥ずかしさ

 この冬は、ロングマフラーがまた流行っているようだ。

 ロングマフラーと言えば、先日サッカーの中田英寿が帰国した折りに巻いてた、シルクだかカシミアだかのもの凄い長さのロングマフラーを思い出す。

 なんという長さ なんという目立ちかた あれを見て私は、「あっ英ちゃん、また」と、思わず目を伏せてしまった。

 私、個人的には中田英寿ってクレバーで媚びがなくて大好きなのだが、高級ブランドの最新流行で鎧のように固めまくったあのファッションだけは……なんともねえ。 ガンバリすぎ。やりすぎ。おまけに若いから、高級ブランドが身に付いてない。もう、歩く成り上がり。歩く成金の若造そのもの。

 オシャレで一番大切な、「さり気なさ」とか「自然に身に付いた感じ」とか「その人らしくくずした感じ」とか……そういうものに、彼はまだ気づいてない。そりゃそうよねえ、まだあの若さだもの。

 あの頭のてっぺんからつま先まで高級ブランド固めで、ツッパって歩いてる姿見せつけられると、「よっ 大統領ガンバレよ」と思いつつも……思わず目を伏せたくなるほど、オシャレ的には恥ずかしい。

 でも、この「恥ずかしさ」にはとても複雑な思いがあって、心の奥ではいいようのない親しみや愛しさも、また感じている。

 そうなんだよねー。若いって、恥ずかしいことでもあるんだよね。

 私も、散々やったもの。

 高校時代まではおとなしい部類の生徒だった(ような気がする)が、一人の先生が言った「人間は恥をかかなきゃ成長しないよ」という言葉を、私は妙に覚えていた。

 で、大学行ったらタガがはずれた。

 おまけに行った先が美大で、やれクリエイティビティだオリジナリティだと、自己顕示欲のドツボのような世界だった。

 よれよれのトレンチコートに、どこで探し出してきたのか本物のドイツ軍のヘルメットかぶってる男の子もいた。きっちりポマードできめたクルーカットにスキのないアイビースタイルで、下駄で腰にひょうたんぶら下げてる男の子もいた。いつも、もう恥ずかしいぐらい髪も化粧も服も、スタイルブックからそのまま抜け出してきたような女の子もいた。

 私も、ぞろりとしたマキシ丈のコートで道路中のゴミを掃いて歩いた。ヨロヨロするような上げ底ブーツ。茶髪に紫色の口紅。背中が全部丸出しのサンドレス、それも街なかで意気揚々と……あーっイヤだ、思い出してもゾッとする

 あのころって、おそらく似合おうが似合わなかろうがたいしたモンダイじゃなかったのね。流行と聞けば、試さずにはいられない。

 試さずにはいられないだけの、好奇心と「着るゾ! 着たおしちゃうとも」っていう、パワーと行動力(ヤバイことに)があったのね。

 勢いというかエネルギーというか、バカというか……まるでエネルギー放出してるみたいに、夢中で着てたような気がする。

 そんな自分の大学時代思い出しながら、街の様子など見ていると、「あっ、そういえば最近、あんまり恥ずかしい若い子に出会わなくなったなあ」と、思ったりする。

 今の若い子って全体的に、確実にオシャレ上手になった。私たちの時よりも。

 しかし、例えば昔美大生だった私たちみたいに……例えば中田英ちゃんみたいに……独りで恥ずかしいほどイキがってツッパってるコって、あんまり見かけなくなったように思う。

 ロックコンサートの脇を通れば、度肝を抜くようなてんこ盛りの赤頭や白塗りメークの、異様な集団を見かけたりすることはある。

 でも、彼らは必ず群れている。

 彼らの異様なファッションは、記号であり、お約束であり、連帯感の象徴だ。

 ファッションは異様でも、独りでツッパるのとは発想が根本的に違う。

 彼らは、恥をかいてるのではなく、連帯してつどっているのだ。

 コギャルも、ちょっと前に流行ったガングロもそう。暴走族の派手なはちまきに特効服という特有のファッションも、右翼の兄ちゃんたちの戦闘服なんかも、ファッション的には同じ発想のものね。

 ひとつの決まったパターンを形づくるファッションの発想の根っこは、基本的に「個」ではなく「グループ」であることが多い。

 どうも、「独りで」「ツッパる」なんてカッコの悪いこと、ましてや「恥をかく」なんてみっともないこと、今の若い子ってしないのかもしれない。

 なんか、みんなすごくお利口になっちゃったような気もする、昨今の街の風景だ。

──たかが、ファッション

 そういえば、前に何年か女子大でゲストスピーカーをつとめた時に、学生達に同じような印象を感じたことがある。

 東京の真ん中にある有名な大学で、学生たちはそれこそ小綺麗な都会の女子大生そのものだった。

 「流行でもなく、センスがいいでもなく、カッコイイでもなく、あなたは楽しんで、あなたらしい好きな服を着てる?」と聞いた私の問いに、学生達は完全に面食らってしまったようだった。

 私は「着ることのアイデンティティ」を聞いたのだ。

 一瞬うろたえた彼女たちは、考え考え出してきた「流行なんか嫌いだと思うけど、人とちょっとでも外れるのが恐い」「本当は、自分に何が似合うのかわからなくて悩んでる」「冒険したいけど、失敗するのが恐くて出来ない」そんな解答が圧倒的だった。

 確かに「着ること」ぐらい、他人や周囲の人間関係のなかで計られる自己表現もない。

 若い女の子に向けられる世間や親の眼が、ことに着ることに向かいがちだという、彼女たちの息苦しさもわからないではない。

 しかし、一番若くて綺麗な季節にいる彼女たちが、たかが「着ること」ぐらいに、なんでこんなに臆病になるんだろうと……私は本気でびっくりしたものだ。

 それにしても、今の若い子ってこんなにも外れたり独りになったりすることが、恐いんだろうか?

 今の子たちの、時代の気分なのかしら?

 それとも、小さいときから管理社会の受験競争の中で育ってきて、もうバカをやるエネルギーもハメを外すパワーも無くなるほど、疲れちゃったのかなあ? 私には、とても不思議だった。

「流行なんて、追いかけ回せぱいいのよ。そういう時期があったっていいじゃない」

「本当に自分に似合うものなんて、いろんな冒険や失敗をしないと見えてこないよ」

「着るものの上での冒険や失敗なんて、別に人に迷惑かけるものでなし、どんどんやればいいじゃない」

 私は一生懸命に女子大生たちに、そんなことを言った。

「外れたって、恥かいたって、たかがファッションじゃないの

 それにしても、これはファッションに限らないことだと思うが、あえてファッションに限って言うなら、恥じをかかなければオシャレは絶対に上手くならない。

 「着る」という、身体や心を通さなければ感覚がつかめないようなことは、いくら頭だけで考えても絶対にわからない。

 身体張って冒険したり実験したりして、そして冒険や実験には必ず失敗やリスクはつきものなのだ。

 ファッションは、恥をかけばかくほど上達する。

 だから中田英ちゃんなんて、10年か15年後にはおそらくアルマーニかイッセイか、あるいは白州次郎ばりの凄いオシャレの達人になってるはずだ。断言してもいい。

 おそらく、彼はリスキーを恐がらないで思い切り生きてる若者なんだろうな……って感じは、ファッションからも伝わってくる。その善し悪しはともかくとして。

 ほんと、「たかがファッション、されどファッション」なんだから。

──廻る、廻るよ……

 ところでロングマフラーといえば、先日ロングマフラーの先端がゴーカートの車輪に巻き付いて、首を絞められた女の子が亡くなるという不幸な事件があった。

 可哀想になあ! でも、思いもかけないけど、「有り」なんだよ、こういう事故は……と、なんだか不思議な「巡り」のようなものを、しみじみと感じてしまった。

 その昔私が大学生だったころにも、ヒッピーという流行の中にロングマフラーがあった。

 ロングマフラー巻くたびに、私は「車輪に注意 車輪に注意」と、肝に銘じたものだった。

 私は、20世紀の初頭に舞踏家のイザドラ・ダンカンが、ロングスカーフの端を自動車の車輪に巻き込まれ、首を絞められて死んだ事件を知っていた。

 で、なぜそんなことを知ってたのかといえば、エゴン・シーレやグスタフ・クリムトといった画家が好きで、ウイーンの世紀末芸術に傾倒し、それでイザドラ・ダンカンのことも知ったのだ。

 「なんて凄い死に方だろう! しかし、スカーフに殺されるなんて、いかにも舞踏家らしくてロマンティックだなあ。それにしても、着るものが人を殺すなんて

 イザドラ・ダンカンのことは、私には世紀末芸術そのもののように暗く退廃的でそれでもゾッとするほど美しい、衝撃的なイメージとして私の中に強烈にインプットされた。

 当時もロングマフラーは流行ってたが、あの頃マフラーに首を絞められた事故があったかどうかは覚えてない。

 それでも、先日の不幸な事件のニュースを聞いた時、私は私の時代に流行ったロングマフラーと、イザドラ・ダンカンのことを鮮烈に思い出した。

 そして、ロングマフラーは20世紀の始めからいったい何回流行ったりすたったり、人を殺したりしたのだろう……と、思ったのだ。

 廻る、廻るよ、時代は廻る。流行も廻る。

 しかしこれって、本当に流行が繰り返しているだけなんだろうか?

 もしかしたら、時間というのは前から後ろに流れているのではなく、ぐるぐる廻っているものなのかもしれない。そして、ぐるぐる回っている時間の中で、小さな人間という生き物が、同じ事を繰り返しながら存在しているだけなのかもしれない……ふと一瞬、そんな不思議な思いにとらわれてしまった。

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